第一章 気宇壮大(十七)

「ああ、知っておる。『国家が一丸となって富国強兵と殖産興業に邁進すべし』という思想のことだろう」
 佐賀藩は立藩以来、戦乱となった際には島津家が攻め上ってくることを想定しており、自ずと安房も島津家の情報には詳しかった。
「はい。もはや藩や家中といった意識を取り払い、日本国が一体とならねばいけないのです。そのために必要なものは、精神的柱石としての天皇、誇りとすべき歴史、そして若者の力なのです」
 神陽は「若者の力」という部分に、ことさら力を入れた。
 ――われらが新しい日本を作るのか。
 神陽の言葉は大隈を鼓舞した。それは皆も同じようで、目を爛々(らんらん)と輝かせ、神陽の話に聞き入っている。
「日本は四囲を海に囲まれており、海防は最重要課題です。しかし諸藩が個々に防備を整えていては、笊(ざる)で水をすくうようなもの。われらが殿の英断により、長崎の警備は万全ですが、その他の国の港はどうでしょう」
 天保(てんぽう)十三年(一八四二)、阿片(あへん)戦争に敗れた清国が、イギリスによって半植民地化されたという情報が入り、佐賀藩の鍋島直正、薩摩藩の島津斉彬(しまづなりあきら)、宇和島藩の伊達宗城(だてむねなり)、土佐藩の山内容堂(やまうちようどう)といった西国諸藩の優秀な藩主たちは、危機感を募らせていた。
 とくに直正は新たに長崎港防衛構想を立案し、防衛線を沖へと広げるよう幕府に提案した。すなわち湾口の外側にある伊王島(いおうじま)と神ノ島(かみのしま)に台場を築き、鉄製大砲百門余を配備するという案である。ところが幕府は江戸湾防備に財力を注がねばならず、その反応は鈍い。それに痺れを切らした直正は、島々が佐賀藩領なのをいいことに、自腹で長崎港防衛構想を実現することにした。その費用には二十万両もかかったが、直正はやり遂げた。ペリー来航の三年前の嘉永(かえい)三年(一八五〇)の話である。 
「とは申しても、他藩のことに口は挟めぬ」
「それを西洋諸国が斟酌(しんしゃく)してくれますか」
 神陽が言葉に力を込める。
「佐賀と薩摩がいかに海防に力を入れようと、肥後(ひご)国に上陸されては何の意味もありません」
 熊本藩細川家五十二万石の肥後国には、横井小楠(よこいしょうなん)や宮部鼎蔵(みやべていぞう)といった傑物がいるものの、百家争鳴というくらい藩論の統一ができておらず、自ずと海防意識も低かった。

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