町民の住居地だった平野町遺跡の便槽から出土した「籌木」

 名護屋城が築城された16世紀末ごろには、京や大坂などの都市部を中心に、人の糞尿(ふんにょう)を農作物の「下肥(しもごえ=肥料)」として利用する仕組みが確立されていました。

 人糞尿は米や野菜などの農作物と交換され、農村部に運ばれて肥料となり、育てられた農作物が都市部にもたらされ、都市民の食生活を支えていました。

 こうした糞尿リサイクルの文化は、農作物の生産性向上と安定供給の役割を担っていただけでなく、都市の衛生環境の改善にも大きく寄与していたようです。

 では、肥前名護屋ではどうだったのでしょうか。城下町に位置し、町民の住居地だった平野町遺跡で発見されたトイレ遺構は、深さが最大で2・7メートルにもなる土坑(=穴、便槽)で、汲(く)み取りの作業には適さない作りになっています。また、便槽内からは肥料として利用する際に邪魔になる籌木(ちゅうぎ=お尻を拭くための木の棒)などが大量に出土しています。

 これらのことから私は、当初から下肥としての利用を想定していなかったのではないかと考えています。

 名護屋で下肥利用が行われなかった最大の要因は、その特異な歴史性にあると思います。文禄・慶長の役に際して、新たに築かれた名護屋城とその城下町は、その当時は周囲に農業に適した土地が乏しく、下肥の供給先となる農村部もなかったために、糞尿リサイクルの仕組みが未だ確立されていなかったと思います。それゆえに、下肥として利用せずに、そのまま埋めて廃棄するトイレを選択したのでしょう。

 平野町遺跡で発見されたトイレ遺構は、この巨大都市・肥前名護屋が臨時的で、いかに急ごしらえであったかを如実に物語っています。(佐賀県立名護屋城博物館学芸課企画普及担当・渕ノ上隆介)

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