第一章 気宇壮大(十五)

 幕末の佐賀藩の石高一覧によると、枝吉神陽三十五石、大木喬任(おおきたかとう)四十五石、島義勇(しまよしたけ)二十五石、久米邦武(くめくにたけ)三十五石にすぎず、大隈の百二十石を別にすれば、下級藩士に属する者たちが義祭同盟の主体となっていた。
 後に大隈が「容貌魁梧(ようぼうかいご)(魁偉(かいい))にして才学共に秀で、ことに学派の範囲を超脱し、また国学に通じて、尊皇の論、国体の説等、皆な其の要を発見せり」と記した神陽は、学者の家に生まれ、後に江戸の昌平黌(しょうへいこう)に藩命で留学し、奥州や北陸へも学問の旅に出かけたこともある佐賀藩随一の逸材だった。留学後に佐賀に戻り、国学指南として弘道館で国史や律令(りつりょう)を講じ、若者たちに尊皇思想を植え付けていった。
 枝吉神陽自らが書いた祭文(さいもん)を読み上げ、楠木父子の勲功をたたえると、それで祭祀は終わりとなる。ただしその後、直会(なおらい)と呼ばれる食事会が寺の講堂で行われる。
 出される料理は、きゅうりの塩もみ、おばやき(鯨の皮)の膾(なます)、塩鯛、潮鮑(あわび)の水漬(ひた)しといった質素なものだが、楠公父子に捧げた酒を皆で回し飲みすることで、父子の魂を受け継いでいくという大事な会だった。
 若手の大隈と久米が酒を注いで回る役目となる。久米は十六歳なので、まだ加盟させてもらえない。
 最上座に着いた鍋島安房と枝吉神陽が向き合い、加盟者たちは左右に居並ぶ形になる。義祭同盟は藩内の序列を度外視しているため、安房を除けば座次(ざなみ)などない。皆、来着した順に奥から詰めていった。
 まず安房が祭祀に参加させてもらったことを神陽に感謝し、今後も参加していきたい旨を話すと、皆はどっと沸いた。これで義祭同盟が藩の公認を得たも同然だからだ。
 安房と神陽は旧知ながら、その身分差からか親しく歓談したことがなかったという。
 安房が神陽に言う。
「こうして楠公の遺徳に触れたことで、心が洗われる思いです」
「仰せの通り、楠公こそ尊皇の象徴であり、今後のわれらの指針としていくべき歴史上の人物です」
「やはり、日本は一君を仰ぐべしとお思いか」
 安房の問い掛けに、座は緊張する。
 藩主絶対主義が浸透している佐賀藩において、それを否定するかのような尊皇思想は、これまで忌み嫌われてきた。

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