初代宮内庁長官が昭和天皇とのやりとりや、その時の様子をつぶさに書き留めたノートや手帳が見つかった。昭和天皇がサンフランシスコ講和条約発効と独立回復を祝う1952年5月の式典で国民に向け、戦争への深い悔恨や反省を表明したいという意向を長官に伝え、「お言葉」の内容を検討させていた詳細な経緯が明らかになった。

 結局、当時の吉田茂首相に反対され、式典のお言葉から戦争を悔やむ一節は削除された。お言葉変更の事実は既に知られているが、吉田首相ばかりか宮内庁側からも反対されながら、反省にこだわり続けた昭和天皇の「肉声」一つ一つが対話形式で克明に記されているところに特徴がある。

 「拝謁(はいえつ)記」と題された資料に収められた昭和天皇の発言は戦争責任や退位論、憲法改正、再軍備にも及んでいる。戦後の新憲法下で「象徴」と位置付けられてもなお戦前の「君主」の感覚を引きずり、長官からたびたびいさめられることもあった。終戦後間もない時期の昭和天皇の考えや思いに触れることができる貴重な資料といえよう。

 昭和から平成を経て令和の時代になっても、戦争を巡る反省の在り方は日本社会が向き合っていかなければならない重い課題であり、歴史のさらなる解明と議論に取り組み、教訓とともに次の世代へと引き継いでいく必要がある。拝謁記はその糸口の一つとなろう。

 初代宮内庁長官は故田島道治。宮内府長官を経て宮内庁に組織改編した49年から53年まで務めた。拝謁記はノートなど計18冊から成る。

 昭和天皇は「媾和となれば私が演説といふか放送といふか何かしなければならぬかと思ふがその事を考へてくれ」と話した。51年1月の日付がある。翌52年1月には「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と述べ、反省の2文字にこだわった。

 その後、宮内庁内部からも反対の声が上がったが、それでも「過去の反省と将来自戒の個所(かしょ)が何とか字句をかへて入れて欲しい よく字句をもう一度練つてくれ」と田島に推敲(すいこう)を求めている。

 しかし吉田首相から戦争を悔やむ一節を削除してもらいたいという手紙が届き、独立回復式典が目前に迫った52年4月に至って「どうもわるいとは思ハないが、総理が困るといへば不満だけれども仕方ない」と受け入れた。吉田首相は退位論の再燃を恐れたようだ。

 昭和天皇に関する記録としては例えば、宮内庁編さんの「昭和天皇実録」があるが、発言の記録は要旨にとどまる。表情まで浮かぶような発言がこれほどまとまった形で出てくるのは珍しい。

 お言葉の検討を巡っては「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬといふ事も書いて貰ひたい」とも述べた。また東西冷戦が激化する中、戦前の軍を否定しながらも「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいい様ニ思ふ」などと何度か改憲による再軍備を語り、田島に「政治ニ天皇は関与されぬ御立場」といさめられた。

 その後、昭和天皇が公の場で戦争への反省に言及することはなかったが、上皇さまは戦後70年の2015年8月、全国戦没者追悼式のお言葉に「さきの大戦に対する深い反省」を初めて盛り込まれた。背景に、父である昭和天皇の強い思いがあったのかもしれない。(共同通信・堤秀司)

このエントリーをはてなブックマークに追加