第一章 気宇壮大(八)

 佐賀藩の教育制度は矛盾(むじゅん)と混乱の中にあった。
 そもそも藩校制度を整えたのは古賀精里(こがせいり)という江戸時代中期の儒学者で、四十七歳の時に昌平黌(しょうへいこう)の儒官(じゅかん)(教授)となり、「寛正(かんしょう)の三学者」の一人に数えられるほど名を挙げた。そのため精里は、朱子学を重んじる幕府の代弁者的立場となり、自ずと佐賀藩の弘道館は、朱子学を中心的教義に据えた。大隈の少年時代まで、弘道館では朱子学以外の学問を学ぶことは厳しく制限され、私学私塾は排斥の対象となった。
 精里の跡を継いで弘道館の教授(学長)となった息子の古賀穀堂(こくどう)は、父親とは打って変わり、再三にわたって藩に蘭学の研究を勧めた。後に江戸に行き、世子(せいし)の直正(なおまさ)の侍講(じこう)(家庭教師)に任命されるや、西洋の科学技術ばかりを学ばせた。
 そのおかげで直正は、他藩に先駆けて鉄製大砲の鋳造と蒸気機関の開発に取り組むことになる。
 また穀堂は『葉隠』を批判し、「それだけで事足りる時代は終わった」と公言してはばからなかった。
 だが穀堂が世子の侍講、そして直正の藩主就任と同時に年寄相談役に就くことで、弘道館の教育改革は遅れ、旧態依然とした朱子学の教育が続けられていた。
 その一方、大隈が弘道館を退学となる前年の安政(あんせい)元年(一八五四)には、穀堂が推進役となって蘭学寮が創設され、すでに設けられていた火術方の下部組織とされることで、優秀な若手藩士の登竜門となっていった。
 かくして弘道館の改革は置き去りにされ、それを筆頭家老兼弘道館長の鍋島安房(あわ)が守っていくという体制が続いていた。

 鍋島安房邸の軒先から滴(したた)る雨を見つめながら、大隈と坂本文悦(ふみよし)は安房を待っていた。
「文悦、退屈だから何か話でもしろ」
「何を言ってやがる。そなたのせいで、わしはこんな目に遭わされたのだぞ」
 坂本が父親から大目玉を食らい、切腹までさせられそうになったのを、大隈は風の噂で聞いていた。
「今更、それを言っても始まらぬ。人は過去を書き換えられぬ。書き換えられぬなら次にどうすべきかを考えるべきだろう」
「屁理屈ばかり並べやがって。そなたの言うことは理解できん」
 坂本が呆れたようにため息をついた。

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