第一章 気宇壮大(五)


 別の部屋から「静かにしろ!」という声が聞こえたが、大隈はいっこうに気にしない。というのも大隈は身長が六尺あり、腕っぷしが強いので、喧嘩(けんか)で後れを取ったことがないからだ。
「それは一理ありますが、朱子学は人間の修養に必要な学問です」
「不要とは言っておらんが、朱子学などは外生の時に学ぶだけで十分だ。この年になって、こんな退屈な学問などやっていられぬ」
 大隈の心には焦(あせ)りが生まれていた。

 大隈と久米のやりとりは続いた。
「では、弘道館をやめるというのは本気ですか」
「ああ、本気だ。しかし、ただやめるのでは面白くない」
「と言いますと--」
 大隈が上半身を起こす。
「自分だけがやめるのは簡単だ。弘道館の教育方針を変えさせてからやめる」
「どうせ何かを献策しても、途中で握りつぶされるだけです」
「だろうな。だから、もう方策は考えている」
「どうやって」と久米が問う前に、大隈が立ち上がった。
「北寮(ほくりょう)に行く」
 何のことやら分からず、久米はきょとんとしている。
 弘道館の内生寮は南北の二棟に分かれ、最大で六百人が寄宿(きしゅく)できる。大隈が十八歳になった安政(あんせい)二年(一八五五)五月は、南北寮ともほぼ満員だった。
 どちらの棟に入るかは家老を頂点とする組で決められており、それが南北の派閥が形成される原因となっていた。
 立ち止まった大隈が問う。
「北寮で最も強いのは誰だ」
「えっ」と驚く久米を尻目に、広澤が答える。
「そりゃ、坂本文悦(ふみよし)だろう」
「ああ、あの医者坊主か」
 医者坊主とは江戸時代初期、権威を付けるために出家姿の漢方医が多かったことに由来する。
「そうだ。いつも喧嘩しているので、相手の爪の跡が坊主頭に刻まれているという手合いだ」
 広澤が得意げに語る。
「馬鹿な男だ。だが、これを機に医学に専心できるようにしてやる」
 久米は大隈と広澤を見比べながら、おろおろしている。

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