「日航ジャンボ機がレーダーから消えた」。一報が入ったのは午後7時ごろだった。乗客乗員は500人を超すという。機体の行方がなかなか分からず、テレビで名簿が延々と読み上げられていく様子は異様だった◆「佐賀に関係する人がいたら取材に急行しなければ」。緊張しながら待機したが、日付が変わっても関係者の情報はなかった。ところが翌朝、電話が鳴った。「お前さんの担当する町に乗客がいたそうだ」。デスクの声が重く響いた◆当時は顔写真を探すという仕事があった。朝から町を回り、すでに夕方近くになっていた。乗客の方の実家に向かうと、お母さんが出てきて「どこの新聞の記者さんね」と聞かれた。「佐賀新聞です」と答えると「うちはずっと佐賀新聞ば取りよっとよ」と言ってアルバムを見せてくれた◆その時、お借りした貴重な写真が翌日の社会面に掲載された。事故は1985(昭和60)年8月12日。あれから34年がたつが、不安を募らせていたであろうお母さんから「遅くまで仕事しよっとね」とねぎらいの言葉をかけていただいたことが忘れられない◆事件や事故での写真の掲載には論議がある。だが、写真や名前はその人が生きていた証しだ。家族の意向やプライバシーに配慮しながら、尊い命が奪われた現実を伝える。それが新聞の務めと今も思う。(丸)

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