第一章 気宇壮大(二)



 父大隈信保(のぶやす)の任じられている石火矢(いしびや)頭人(かしら)は、佐賀藩と福岡藩黒田家が一年交代で幕府から任命されている「長崎御番(ながさきごばん)」の中核となる極めて重要な役割を担っていた。
 信保は数学的知識を持った砲術の専門家で、幼い大隈を大砲の試射場や長崎に連れていき、大砲の発射教練を見学させていた。
 だが残念なことに、大隈が十二歳の嘉永(かえい)三年(一八五〇)、剣術稽古の最中に脳出血で急死した。数えで四十七歳だった。
 父と過ごした日々は長くはなかったが、大砲と築城(台場(だいば))に関して強い関心を抱いたのは父の影響だったと、後に大隈は述懐している。
 その後、未亡人となった三井子は、女手一つで四人の子を育て上げた。たとえ裕福な武士でも、四人の子すべてが成人まで無事に育つことはまれな時代だ。しかし三井子は、この難事業を一人でやり遂げた。
 ちなみに姉二人はそれぞれ佐賀藩士に嫁ぎ、また弟の欽次郎(きんじろう)は同じく佐賀藩士の岡本家に養子入りし、明治十年(一八七七)まで存命したが、大隈が三人と親しく行き来した形跡はない。大隈は東京に本拠を置いたので、親戚付き合いできなかったのが理由らしい。
 大隈は六歳で藩校弘道館の外生(がいせい)(今の小学生)となり、佐賀藩独自の教育を受けることになる。
 十四歳から内生(ないせい)(今の中学生以上)へと進んだ大隈は、寮生活を送ることになる。この年は嘉永六年(一八五三)で、江戸はペリーの来航で大騒ぎとなっていた。また佐賀藩の守る長崎にもロシアのプチャーチンが来航し、にわかに諸外国との緊張が高まってきていた。
 実は大隈が生まれた翌々年にあたる天保十一年(一八四〇)の阿片(あへん)戦争で、英国に敗れた清国は英国の植民地となり、その危機感が、諸藩主からその家臣に至るまで広がり初めていたからだ。
 すでに佐賀藩では鉄製大砲の量産ができるようになっており、ペリーとプチャーチンがやってきたこの年、藩主の鍋島直正(なおまさ)(後の閑叟(かんそう))は幕府老中の阿部正弘(あべまさひろ)の注文に応じ、五十基の大砲を製造・納品することになる。かくして激動の時代が幕を開ける。
 少年時代の大隈は他に抜きん出るほど優秀ではなく、また腕っぷしも強い方ではなかった。
 そのため母の三井子は鍋島家の菩提寺(ぼだいじ)の高伝寺に連れていき、心身を鍛えるために、槙(まき)の大木に登らせた。そのためこの槙の大木は、「八太郎槙」と呼ばれるようになる。

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