女優の渡辺美佐子さんに切ない思い出がある。テレビの対面番組で会いたい人を問われ、戦時中に東京の小学校で1年ほど級友だった初恋の少年を挙げた。番組当日、現れたのは高齢の夫婦―少年の両親だった◆広島の親類のもとに疎開した少年は8月6日の朝、爆心地近くへ勤労作業に出たまま戻らなかった。遺品も遺骨も残っていない。一緒だった子どもたちも一人残らず亡くなり、目撃者もいない。死んだという証拠もなく、お墓もつくれない、と両親は語った◆悲しいことを思い出させてしまったとわびる渡辺さんに2人は優しかった。「12年しかこの世にいなかったあの子を知っている人はほとんどおりませんのに、今も憶えていてくださる方がいて、あの子はさぞ喜んでいるでしょう…」(『ひとり旅一人芝居』)◆渡辺さんは戦後40年の1985年から、女優仲間と原爆の朗読劇に取り組んできた。戦後の自由な時代も知らず、亡くなった少年に対し「私だけ好きなことをして、ごめんね」という気持ちからだったという。主宰団体が解散し、出演女優でお金を出し合って続けてきた舞台だった◆渡辺さんは現在86歳。その朗読劇「夏の雲は忘れない」は今夏で幕を下ろす。記憶の当事者がまた一人、表舞台を去っていく。託されたバトンをしっかり握れているか、あの日の朝に思う。(桑)

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