プロローグ(一)

 雨が降っていた。冬の冷たい雨だ。
 大隈(おおくま)邸の前で止まった人力車から急いで降りようとした久米邦武(くめくにたけ)だが、雨でステップが滑り、危うく転倒しそうになった。
 反対側のドアから降りた書生が慌てて駆けつけ、手を差し伸べてくれた。
「すまぬ」と言いつつ、その手を借りて、久米はようやくステップを降りられた。
 --八太郎(はったろう)さんよ、これではわしも長くはない。
 大隈より一つ年下の久米は八十二歳になる。
 玄関口には、大隈の妻の綾子(あやこ)と聡明なことで知られる一人娘の熊子(くまこ)が待っていた。二人は正座し、「ご足労いただき、ありがとうございます」と言って頭を下げた。
 書生に手を取られるようにして大隈の横たわる部屋に案内されると、医者や看護婦をはじめとした十人余の人々が集まっていた。久米が来たことで、彼らは座を開けた。
 襖(ふすま)を取り払った次の間には、早稲田大学関係者、憲政会、大日本文明協会など、かつて大隈が関与した団体の代表者が顔をそろえている。そちらに目礼した久米は、ようやく大隈の傍らに腰を下ろした。
 六尺(約百八十一センチメートル)に及ばんとする大隈の体躯(たいく)が、窮屈そうに蒲団(ふとん)にくるまれていた。弘道館(こうどうかん)の寮で起居を共にしていた頃は、足首から先が蒲団から出ていたものだが、さすがに今は蒲団の中に収まっている。
「八太郎さん、どうなさった」
 久米の声に気づいたのか、大隈がゆっくりとこちらを向く。下唇の下に桃の種が収まっているかのような渋面(しぶづら)は相変わらずだ。
「何だ、丈一郎(じょういちろう)か」
 その不愛想な態度は、若い頃と何ら変わらない。むろん身を乗り出し、「よく来てくれた」などと言われて涙を流されては、久米もどう対応していいか分からない。
 --よかった。
 なぜか久米は安心した。
幼少の頃から膨大な時間を共に過ごした久米にとって、大隈がどのような人間かは骨の髄まで知っている。
「動けないと聞いていましたが、元気そうじゃないですか」
 大隈の顔に笑みが広がる。

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