長崎県の国営諫早湾干拓事業の閉め切り工事で関係者が見守る中、潮の流れをせき止めるため次々と落とされる鋼板=1997年4月14日

 国営諫早湾干拓事業の潮受け堤防排水門の開門を巡る訴訟が重要な局面を迎えている。最高裁が今後示す司法判断が一連の訴訟の流れを左右する可能性があり、26日に開かれる上告審弁論を前に干拓事業の歴史や裁判の経過を整理する。

 なぜ争っている? 

 国営諫早湾干拓事業(長崎県)で、湾奥を閉め切った約7キロの堤防。この堤防の南北2カ所にある排水門を常時開き、内側の調整池に海水を入れる「開門調査」について、漁業者と営農者、国の3者の考えは割れている。佐賀県などの漁業者側は「有明海異変の原因を究明する手段に」と望む一方、堤防内の干拓地の営農者側は「開門すれば農業被害が起きる」と反発。国は非開門の姿勢を明確にし、開門を巡る法廷闘争は混迷が続いている。

 諫早湾干拓事業の始まりは、終戦直後の食糧難を背景とした1952年の「長崎大干拓構想」にさかのぼる。平たん地の乏しい長崎県が、諫早湾全体の約1万ヘクタールを堤防で閉め切って農地と淡水湖を造成する方針を打ち出した。64年からは国の直轄事業の「長崎干拓事業」として本格的に動き出した。

 

 諫早湾は有明海の漁業資源供給を担う「有明海の子宮」とも呼ばれ、漁場を失う湾内の漁業者をはじめ、有明海への影響を懸念する佐賀県などの漁業者の反発は強かった。国は閉め切りの範囲縮小や防災名目の追加など計画を変更し、湾内の漁協や佐賀など沿岸3県の漁連と漁業補償で合意を得て、89年に「諫早湾干拓事業」として着工にこぎ着けた。97年4月、「ギロチン」に例えられる293枚の鋼鉄板が海に落とされ、湾奥部が閉め切られた。

 着工や閉め切り以降、湾内外の有明海で高級二枚貝タイラギなどの不漁が叫ばれ、2000~01年には養殖ノリが記録的な不作に見舞われ、海況異変の要因として諫早湾干拓事業がやり玉に挙がった。農水省は02年、工事を中断して排水門を開放する2カ月の短期開門調査を実施した。

 調査で5年ぶりに堤防内に海水が入り、富栄養化した淡水が希釈されて汚濁度が低下したことなどが報告された。ただ、国の第三者委員会が提言していた中・長期開門調査を巡っては、04年当時の農相が見送りを表明。そのまま干拓事業は完成を迎え、堤防内に新しく造成された干拓地で08年春から営農が始まった。

 訴訟の動きも並行し、漁業者側は02年、工事差し止めを求めて佐賀地裁に提訴し、仮処分も申し立てて一時認められた。営農開始直後の08年6月、佐賀地裁は5年間の開門を命じる判決を出した。控訴審でも福岡高裁が10年12月、堤防閉め切りと漁業被害との因果関係を認定した上で、5年間の開門を3年以内に実施するよう命じた。当時の菅直人首相は上告断念を表明し、高裁判決が確定した。

 営農者側は11年に開門差し止めを求めて長崎地裁に提訴し、仮処分も申請。国は開門に踏み切らず、期限が迫る13年11月に差し止めを認める仮処分決定が出された。17年4月には長崎地裁が差し止めを命じる判決を言い渡し、国側は控訴しなかった。漁業者側の対抗手段の手続きも最高裁で認められず、確定した。国は相反する司法判断の確定判決によって「開門」と「非開門」を課される形になっている。

 

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