南北朝時代、歴史の表舞台にあった所隈山城跡=鳥栖市

 鳥栖市西部の村田町にある九州龍谷短期大学の西側には所隈山が広がっています。標高114メートルほどの低山ですが、山頂付近には斜面を造作して平たくした所に複数の曲輪を築いた、古い山城の跡が残されています。

 この所隈山城が主に用いられたのは南北朝時代だったようです。当時の北部九州は、懐良親王や菊池氏をはじめとする南朝方が大宰府を占領するなど優勢であり、対する北朝方は九州探題として今川了俊(貞世)を派遣して勢力の挽回に努めていました。

 そんな中、応安6(1373)年4月、了俊の弟・今川氏兼が軍勢を率いて所隈に布陣し、同年8月まで南朝方と幾たびも合戦に及んだことが記録に見えます。

 その後、戦国時代に入ると所隈山城の名前は見えなくなるのですが、県や市の調査に伴い、山の西側部分に残る平地は明治7(1874)年に起こった佐賀の乱でも使用されたのではないかという可能性が指摘されています。

 交通の要衝である鳥栖を巡る攻防の最前線として、時代が移り変わっても重要な場所であったようです。(地域リポーター・田中健一=鳥栖市儀徳町)

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