土俵際でもつれ、館内を沸かせるいい相撲ほど裁きづらいものはない。第36代木村庄之助さんが語っている。〈裁きづらい力士の取組の前の日は、いくつになっても憂鬱(ゆううつ)になる〉と。そんな「行司泣かせ」の力士のことをテレビ番組でしゃべったら後日、本人が現れた。「親方、行司泣かせですいません」。引退を表明した安美錦関である◆関取在位は歴代最多タイの117場所。多彩な技と粘り腰で上位陣を苦しめた。以前、本紙読者文芸欄にこんな一首があった。〈大銀杏(いちょう)も細くなりたる安美錦けふも一番奮闘をせり〉(有田町・廣澤益次郎さん)。アキレス腱断裂など度重なるけがに見舞われながら、不惑の年を迎えてなお土俵に向かう姿は、胸打たれるものがあった◆右膝のけががなければ、大関も狙えたとの声もある。本人はしかし、「けががあったから、ここまでやれた」。どうすれば痛みを感じなくなるのか工夫することで技術は高まる。「土俵のけがは土俵の砂で治す」を地で行く人だった◆「出てけがをしたらどうするんだとか、今まで思ったこともないことを思った」。引退を決めたのは、初めて土俵に上がること以外を考えたからだという◆決断の日にも稽古場へ下りた。愚直、努力、あきらめない…そんな忘れかけていたものを、背中で思い起こさせてくれる力士だった。(桑)

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