約90年に及んだハンセン病隔離政策により患者のみならず家族も深刻な偏見や差別にさらされたとして元患者の家族らが国に損害賠償を求めた訴訟の判決で、熊本地裁は国に賠償を命じた。裁判で国側は「家族は隔離対象ではない」と強調。隔離政策が差別や偏見を助長したことは認めながらも、家族にまで及んでいないと主張していた。

 しかし戦前から戦後にかけ国策として患者の収容・隔離が強化、徹底される中で「恐ろしい伝染病」という偏見が広がり、患者はもちろん、家族も就職や結婚から近所付き合いに至るまで社会生活のさまざまな場面で差別に苦しめられた。その爪痕は深く、被害の訴えは後を絶たなかった。

 2001年5月の熊本地裁判決は隔離政策を違憲とし、元患者らに対する国の賠償責任を初めて認めた。当時の小泉純一郎首相は控訴断念を政治決断。国は元患者に謝罪し、補償金支払いや生活支援に乗り出した。だが家族は救済対象から外され、ハンセン病問題で残された課題といわれてきた。その克服なしに、全面解決はありえない。

 国にもまだ言い分はあろう。とはいえ、国策が招いた偏見と差別が家族にまで及んだことは否定しようもなく、なかったことにはできない。被害を訴える多くの声と真摯(しんし)に向き合い、早急に実態把握と救済の枠組みづくりに取り組むべきだ。

 ハンセン病はかつて「らい病」と呼ばれた。患者の隔離は明治期に始まる。海外から患者を放置していると非難され、1907年の法律制定を経て療養所に入所させる措置が取られた。これによって感染しにくいのに、伝染力が強いという誤った見方が広まり、29年には患者を強制的に入所させる「無らい県運動」が全国的に展開された。

 さらに31年に最初の法律を改正した「らい予防法」が、53年にそれに代わる同名の新法が制定され、96年まで存続。この間、55年には最多の1万1057人が隔離されるなど「患者絶滅」が進められた。「不良な子孫の出生防止」を掲げ、多くの人に不妊手術を強いた旧優生保護法は手術の対象とする病名に精神疾患や知的障害とともにハンセン病を挙げていた。

 40年代に米国で治療法が確立されていたにもかかわらず、国は隔離政策を改めようとはせず、元患者はもとより、その家族も社会における居場所を奪われて孤立した。偏見のため離婚や退職を余儀なくされた人もいれば、身内の入所を隠し、長年にわたり息を潜めて暮らしている人もいる。

 原告は2016年2月に、まず第1陣の59人が提訴。その後、10倍近くの561人に増えた。今回の熊本地裁判決は「隔離政策などにより、患者の家族が大多数の国民による偏見差別を受ける一種の社会構造を形成し、差別被害を発生させた」と指摘。また「隔離などにより、家族間の交流を阻み、家族関係の形成の阻害を生じさせた」と家族の被害を認定した。

 具体的な被害として「学校側による就学拒否や村八分」「結婚差別」「就労拒否」「進路や交友関係など人生の選択肢の制限」などを挙げている。さらに旧厚生省が遅くとも1960年の時点で隔離政策を廃止しなかったことや、国会が96年まで、らい予防法を廃止しなかったことを違法としており、国の責任ある対応が求められている。(共同通信・堤秀司)

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