「葉隠」には多く「曲者(くせもの)」が登場する。時代劇で「曲者っ、出会え、出会えーっ」と言う曲者ではない。「葉隠」の曲者は、一筋縄ではいかぬ者、優れた才能を持つ人物をいう。

 神右衛門(じんえもん)申し候(そうろう)は、「曲者は頼(たの)もしきもの、頼もしきものは曲者なり。年来(ねんらい)ためし覺(おぼ)えあり。頼もしきといふは、首尾よき時は入らず、人の落目(おちめ)になり、難儀(なんぎ)する時節(じせつ)、くぐり入りて頼もしするが頼もしなり。左様(さよう)の人は必定(ひつじょう)曲者なり」と。(聞書第一133節)

 神右衛門とは山本常朝の父山本神右衛門重澄(しげずみ)である。「人が万事うまくいっているときには来ないが、落目になって困っていると助けに来てくれる。そのような者こそが曲者である」と言っている。

 1人の曲者を紹介する。第2代藩主鍋島光茂(みつしげ)の遊び相手として育ち、後に年寄役、加判(かはん)家老(かろう)(1代限りの家老)となった相良(さがら)求馬(きゅうま)である。

 相良求馬ほど發明(はつめい)なる人、又出来(でき)まじくと思はれ候。打見(うちみ)たる所、さても利發(りはつ)なる人と相見(あいみ)え、分別(ふんべつ)するほど發明顯(あらわ)れ候。光茂公歌道一偏(かどういっぺん)の御執心故(ごしゅうしんゆえ)、勝茂公よりご意見、年寄役(としよりやく)は蟄居仰付(ちっきょおおせつ)けられ候。(聞書第二67節)

 「求馬ほど賢明な者は、またとは現れないだろう」と常朝も太鼓判を押している。光茂が歌道に執心であることを初代勝茂(かつしげ)は厳しく咎(とが)め、それを許していた年寄役たちは蟄居を命じられ、お側に仕える者たちもお叱りを受けた。ところが末座にいた求馬が「光茂公のご気性は私が最もよく存じております。抜群のご器量ですが、短気で手荒いところもおありです。歌道を嗜(たしな)まれることでご気質も和らぎ、お家ご長久の基(もと)となりましょう」と、切腹も覚悟で進言した。後日、勝茂は「光茂に仕える者どもは愚か者ばかりだ。ただ末座にいた若者だけは面構(つらがま)えからも器量者(きりょうもの)と見えた」と言った。「葉隠」は他にも求馬の曲者ぶり語っている。

 相良求馬は、御主人と一味同心(いちみどうしん)に、死身に成りて勤めたる者なり。一人當千(いちにんとうせん)といふべし(聞書第一8節)

 一鼎話(いっていばなし)に「相良求馬は、泰盛院(たいせんいん)様御願(ごがん)に付(つい)て出現したる者なるべし。抜群の器量なり。毎歳暮(まいさいぼ)御願書御書(ごがんしょおか)かせなされ候」(聞書第一9節)

 泰盛院(勝茂)御願書の1番の願いは「家中に優れた者が出現しますように」であった。求馬は浪人も経験し、切腹の沙汰(さた)もあったが、勝茂の御願が届いて出現したと褒(ほ)め上げている。

 他にも多くの曲者がいた。殿の勘気を被ることもあったが、佐賀藩は彼らを容易に失うようなことはしなかった。(葉隠研究会副会長)=おわり

【連載終了のお知らせ】

 連載「いまこそ葉隠」は、執筆者の大草秀幸さん=佐賀市、享年72=が12日に急逝されたため、今回で終了いたします。

 大草さんは1970年に佐賀新聞社に入社し、記者を経て、編集局次長や販売局長を歴任しました。

 退社後、ふるさと相知町(現・唐津市)の町長を2期務めた後、2007年からは5年間、アバンセ館長を務めました。

 葉隠研究会副会長として著書「いまこそ葉隠」(佐賀新聞社刊)を執筆し、今年1月から毎週、佐賀新聞紙上で連載を手掛けてきました。

 読者の皆様のご愛読に感謝するとともに、大草さんのご冥福をお祈りいたします。

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