子どもの頃は特に、何のために生きるのか、とか、なぜ勉強しなくてはいけないのか、という疑問が大きくなることがあります。小学校や中学校では勉強は基礎部分ですし、生活はほとんどが学校で完結していて、その外やその先については知りようがありません。毎日毎日が実は単調な繰り返しであり、意味も分からぬまましなければならないことが次から次に押しつけられる形になるため、思春期を迎え、他に自分のしたいことが増えてくると、なんでこんなことをしなければならないのか、という思いが強くなるのは自然なことでもあるといえます。

 子どもはこれを解決するだけの情報も経験も不足していることと、思春期特有の極端な思考で、自暴自棄になったり、生きる気力を失ったりもできるほど悩むことがあります。

 学校教育は考え方を教える前提ですが、正解の導き方を教える形です。早く正確に答えを出すことが重視され、問題に対する答えは誰にとっても同じものです。学校のみならず、社会も答えを直接求める時代になりました。この流れで、私たち大人も、子どもたちの「なぜ勉強するのか」「何のために生きるのか」の問いに、安直な答えを示す傾向が強まっているように思います。将来のため、世のため、人のため…など、何かしらそれらしい理由をつけて答えを返そうとしてしまいますが、到底子どもたちが納得できるものではありませんし、答えているつもりの大人も納得してはいません。一つの単純な理由を答えとして説明できる問いではないからです。

 何にでも答えがあるわけではなく、何でも分かる必要があるわけでもないことが学校の中では分かりにくいのが現実です。答えを知らねばならない、明確な目的や目標がなくてはならない。そういう教育を行っている中で、いま、本当に大人も子どもも悩んでいるのは、答えの出ない幾多の課題についてです。

 わからない、答えがないからしない、考えないではなく、わからないながらも考え続けること、議論を続けることが生きていくことの中にはどうしても必要だということを大切にする世の中であってほしいと願います。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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