南伊豆の山道をボンネットバスが走る。昭和11(1936)年の古い映画に『有りがたうさん』(清水宏監督)というのがある。通行人や馬車に道を譲ってもらうたび、二枚目の若い運転手(上原謙)が「ありがとう」と会釈する。ついたあだ名が映画の題名である◆不況下のさまざまな人生を乗せてバスは行く。途中、旅芸人から伝言を頼まれ、村娘は「流行歌のレコードを買ってきて」と声をかける。貧困のため身売りする少女は、もう帰れない故郷への手紙を運んでほしいとねだる。「ありがとう」は住民が運転手に向ける言葉でもあった◆佐賀市の山間部などを中心に、民間バス路線の廃止が検討されている。高齢化や過疎化が進む地域にとって「ありがたい」路線も、運転手の高齢化と人手不足にあえぐバス業界には「ありがたい」存在ではなくなっている◆福岡市早良区の逆走事故で、運転していた81歳は自治会活動にも熱心で、夫婦で健康づくりに励む、どこにでもいる「隣人」である。人ごととは思えない惨事に、公共交通網からはじき出されそうな地域の高齢ドライバーの深い苦悩を思う◆バス会社は路線の見直し時期を延期した。生活の足をどう確保するか、簡単に答えが出せる問題ではなかろう。誰もが「ありがとう」と言い合える、映画のように幸福な結末を夢想してみる。(桑)

このエントリーをはてなブックマークに追加