明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は三根中(三養基郡みやき町)の旧2年1、2組です。(授業実施2月28日)

 

【きょうの教材】

戊辰戦争開戦 慶応3(1867)~同4(1868)年

「さが維新前夜」2017年11月4日付

軍服姿の鍋島直大(右)。京では政局が緊迫の度を増し、藩主として難しい対応を強いられた(鍋島報效会所蔵)

 徳川慶喜が大政奉還をして2カ月後の慶応3(1867)年12月9日、朝廷は「王政復古の大号令」を発した。これまでの朝廷の官職を廃し、総裁や、議員のような役目を持つ議定、参与の「三職」を配置することを宣言。これに続き、初の三職会議(後に「小御所会議と呼ばれる」)が開かれた。会議は慶喜の処遇を巡って紛糾し、結局、官位と領地の返納を慶喜に要求することを決定。大阪城にいる慶喜率いる旧幕府軍と、京の御所を固める薩長を主とした倒幕派の間は、一触即発の状況となった。

 大政奉還や薩長の動きを察知できていなかった佐賀藩の対応は、後手に回った。直正か息子の藩主直大の上京を朝廷から命じられたが、動向を見極めようとしたのか、直大は「道路遠隔」を理由に延期を願い出た。12月下旬に兵を率いて佐賀を出発した佐賀藩家老も、政情悪化を受けて豊前(現在の福岡県)で足止めを食ってしまう。

 それでも慶応4(1868)年1月初め、京都警備のため直大とその一行は佐賀を出発し、船に乗るため伊万里に入った。そして、出発を待つばかりだった一行にもたらされたのが「鳥羽・伏見の戦い」勃発の知らせだった。1月3日、京の鳥羽、伏見で始まった旧幕府軍と薩長軍(新政府軍)との戦いは、錦の御旗を掲げた薩長軍が勝利。徳川慶喜は大阪城を脱出し、海路江戸に向かった。

 直大の上京は中止となり、江藤新平らが京に派遣されたが、彼らを待っていたのは、佐賀藩に対する厳しい評価だった。新政府は慶喜追討令を出し、在京諸侯に立場を明確にするよう要求した。佐賀藩は藩主が京におらず、国元でも藩論がまとまらず「旧幕府側につくのではないか」との疑いを招いた。研究者は「内戦による混乱を避けようとしていた佐賀藩の方針がこうした対応につながった。むしろ旧幕府軍の敗北後に奉行が脱出した長崎のことが、関わりが深い佐賀藩にとって気がかりだったのではないか」と当時の状況を推測する。

 

佐賀藩の軍備は日本守るため

三根中旧2年1、2組の皆さんと日高正基先生

日高正基先生 幕末、長州や薩摩といった藩は、最初に掲げていた尊王攘夷から、次第に倒幕へと立場を変えて徳川幕府に対抗し、15代将軍の徳川慶喜はついに朝廷に政権を返しました。ところが朝廷は、慶喜に官位と領地の返上も要求したため、旧幕府軍と新政府軍との戊辰戦争が起こりました。その中で、佐賀藩を率いていた鍋島直正はどう関わったか、どんな考えのもとに行動したのかを考えるため、佐賀新聞社の記者さんの話を聞きます。

江島貴之記者 佐賀藩は、長崎港の警備を務めていたため、西洋の技術などに触れる機会がとても多くありました。また、英国軍艦の長崎港への侵入を許した「フェートン号事件」を経験したり、アヘン戦争で清(中国)が英国に負けたことを知り、「日本も危ない」ということをいち早く感じ取っていました。そこで佐賀藩はいろいろな改革を行い軍事力を充実させ、藩の実力を蓄えていく中で、幕末という「時代の流れ」に直面していきます。

 佐賀藩の軍事、技術力の高さは全国的に知られていたので、戊辰戦争が始まる前に討幕派の薩長から「佐賀藩も参戦を」と要請されましたが、直正はなかなか動こうとしません。歴史をすでに知っている我々は、「すぐに参戦していれば維新後の佐賀の地位はもっと上がっていたのでは」と、つい考えてしまいます。こういう佐賀藩の態度に、新政府側からは「佐賀は旧幕府側につくのでは」「まず佐賀を討つべき」という声まで上がったそうです。なぜ、強力な軍備を持っているのにすぐに参戦しなかったと思いますか。

戊辰戦争への佐賀藩の関わりについて話す江島貴之記者=三養基郡みやき町の三根中学校

日高先生 佐賀藩はなぜ軍事力を高めたのか。また、なぜ戊辰戦争にすぐ参戦しなかったのか。まず1人で考え、グループ、クラス中でも話し合い、何人か意見を発表してください。

生徒❶ 軍事力を高めたのは、長崎警備で外国の軍事力に対抗するため。戊辰戦争の参戦に迷ったのは、日本を守るための力を国内の戦いに使いたくなかったから。

生徒❷ 佐賀は外国に近いので、攻められても大丈夫なように軍事力を高めた。戊辰戦争への参加が遅れたのは、佐賀藩の大砲などの威力が大きいので、犠牲者がたくさん出ると思った。また、内戦で国土が荒れては何にもならないと考えた。

江島記者 私が言いたいと思っていたことを、しっかり述べてくれました。グループでの話を聞いていると「戊辰戦争の最初では、どちらが勝つか佐賀藩は様子を見ていたのかも」という意見もありました。しかし、やはり大きくは「内戦はしてはいけない」との思いが強かったということです。内戦の混乱が長引くと、外国の軍隊が介入してくることもあります。幕末維新博のキャッチコピーに「その時、佐賀は世界を見ていた」という言葉がありました。まさに「世界を見ていた」佐賀藩だからこそ、こういう行動につながったと言えます。

江島記者を交え、グループの中で意見を述べ合う生徒たち

 明治時代、日本は国力が弱かったので、外国からたくさんのことを学び、時間をかけて力を蓄えて欧米に肩を並べていきました。これは、幕末に佐賀藩がやったのと同じ事を日本というレベルで行い、国が成長していったということです。そして、それが今の日本につながっていると考えると、幕末維新で佐賀藩が残した功績は大きかったのだと思えるのではないでしょうか。

生徒代表 鍋島直正や幕末維新のことを話してもらい、新聞記者の人はニュースだけでなく、歴史にも詳しいことに驚きました。僕は歴史が大好きなので、一層興味を持つことができました。本日はありがとうございました。  

 

【授業を聞いて・みんなの感想】

1組 大石 琳音さん

 この日の授業中、班に分かれての意見交換の時間に、みんなは「佐賀は日本を見ていた」と言っていた。しかし、記者さんの話で、直正がアヘン戦争の結果などから「日本も危ない」といち早く気づき、すぐに軍事力を強めるなどの行動に移ったということを知り、僕は「鍋島直正は世界を見ていた」と言った方が、より的確かなと思った。

 

1組 西原 百香さん

 鍋島直正は、だれよりも佐賀のこと、日本のことを考えていた人だった。これまでの授業や幕末維新博の見学などで、鍋島直正のことを少しは知っていたが、今日の授業で、直正は誰よりも先のことを見据えて行動していたことを、あらためて知った。佐賀の歴史上にこんな人がいたのだと、「尊敬」という言葉では足りないくらいだ。

 

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