明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は東与賀中(佐賀市)の旧2年A~C組です。(授業実施1月23日)

【きょうの教材】

日本赤十字社を創設 博愛思想昇華、列強と比肩へ 佐野常民(1822-1902)

「さが維新ひと紀行」2018年10月13日付

1888(明治21)年の磐梯山噴火で初めて災害救護に当たる日本赤十字社。前身の「博愛社」は佐野常民らが結成した(日本赤十字社提供)

 1877(明治10)年、明治政府に不平を抱く士族が、下野した西郷隆盛を押し立てて武力蜂起した。士族軍・政府軍合わせて1万人を超える死者を出した西南戦争。田原坂(現在の熊本市植木町)の激戦は、3月4日から17日間続いた。

 当時、元老院議官の職にあり、悲惨な戦況を知った佐野常民は右大臣岩倉具視に、日本赤十字社の前身となる「博愛社」の設立願書と5条からなる社則を提出した。第4条には「敵人の傷者と雖も、救ひ得へき者は之を収むへし」とあり、敵兵救護を明記した。願書には「彼徒を感化するの一端とも相成るべく候」との記述もある。王政復古後の相次ぐ内乱は、天皇を中心とした国家づくりの基盤を揺るがす懸念材料であり、敵兵救護には天皇や政府の求心力向上につなげようとの政治的な思惑も見える。相互互恵という人道的な意識啓発につなげつつ、「報国」という儒学的な統治の思想にも関連させる。「博愛」の赤十字活動の思想は、このような図式で昇華され日本に浸透していく。

佐野常民肖像(国立国会図書館ウェブサイトより転載)

 研究者は「日本赤十字の父」と呼ばれる佐野には「二つの原体験があった」と指摘する。一つは1848(嘉永元)年の適塾入門。医師の道を歩んでいた佐野は、大阪の蘭学医・緒方洪庵に学ぶ。「棄てて省みざるは人道に反す」。ここで学んだ医の倫理が人命尊重の精神をはぐくんだ。二つ目は1867(慶応3)年のパリ万博。誕生間もない国際赤十字の存在と理念を見聞した。この二つの経験が、西南戦争を契機に佐野を博愛社設立へと駆り立てた。

 また、前述の研究者は「佐野には西洋へのあこがれだけではなく、いかに日本を守るかという欧米列強への強い対抗心があった」とみる。時代背景と佐野の行動を重ねると、ヒューマニストの顔とは別に、国際社会における日本の地位向上を図り、欧米諸国に肩を並べようとする現実主義者としての一面が浮かび上がる。

 

佐野常民、博愛社創設の理由は?

佐野常民の業績について学ぶ東与賀中旧2年A~C組の皆さん

杠一恵先生 昨年、幕末維新博の見学に行ったことを覚えていますか。きょうは、その維新博でも紹介されていた佐野常民のことを皆さんにもっと知ってもらいたいということで、佐野常民の記事を書いた佐賀新聞社の記者やデスクの方に来ていただきました。

多久島文樹デスク なぜ佐野常民を取り上げるかというと、これは校長先生のリクエストです。

川内野彰夫校長 理由は、まず、この東与賀町の隣、川副町の出身であること。そして日本赤十字社の前身「博愛社」を創設した人であること。でも、きょうは彼がそれだけの人ではなかったということも学んでください。

佐野常民の業績や博愛社創設に至った経緯などについて説明する多久島文樹NIE推進デスク

多久島デスク 佐野は博愛社創設以外でも実にたくさんの業績を残しています。1822年に生まれ、11歳の時に藩医である佐野家の養子となり、皆さんと同じくらいの13歳で藩校弘道館に入学。江戸や大阪にも留学し、特に、大阪の緒方洪庵という蘭学医の塾で医学を学びました。佐賀に戻ってからは「精煉方」という研究所の責任者となり、鉄製大砲や蒸気機関など、ものつくりの役目を担います。それから、長崎でオランダ人から航海術や造船などを学んで佐賀藩の海軍を充実させました。そして明治維新直前には、フランスのパリに行き、佐賀藩が参加した万博で藩の責任者も務めました。

山口貴由記者 佐野は日本赤十字社の父と言われます。日本赤十字社がどんな活動をしているか知っていますか。

生徒❶ 献血を募っている。

生徒❷ 病院を運営している。

山口貴由記者=佐賀市の東与賀中

山口記者 ほかにも募金、災害救護などいろんな活動をしています。いわば「困っている人を助ける」活動です。

 博愛社が創設された時、九州で西南戦争という内乱が起こっていました。明治政府に不満を持つ士族軍と政府軍合わせて1万人以上が死ぬという大規模なもので、この悲惨な状況を何とかしたいと佐野は考えました。内乱とは国民同士の戦いなので、国にとっては何もいいことはありません。佐野は当時、政府の一員でしたから「敵であっても助ける」ことで、士族側の政府に対する不満をやわらげたり、思いを変えさせる狙いもあったようです。

 私が記事を書いていて面白いと思ったのは、実は、設立願いは一度却下されたのに佐野はあきらめず、政府軍の総督に直訴して設立が許されたということです。とても行動力のある人だったのだと感じました。

生徒❸ なぜ、そこまでして人を助けたいと思ったの?

山口記者 まず、若い時に医者として人の命を尊重することを学んだということ。もう一つは、政治家として内乱の犠牲を最小限に抑えたいと思ったのではないでしょうか。

生徒❹ どうしていろんな分野で頑張れたの?

山口記者 佐野は医者であり、佐賀藩の精煉方や海軍など多方面で活躍しましたが、その根底にはアジアに進出してくる欧米列強への強い危機感があったのではないかと、佐野常民記念館の学芸員に教えてもらい、私は「なるほど」と思いました。だから、パリ万博に行った時に欧州の様子を詳しく研究しているし、この時に国際赤十字の組織や活動についても見聞を広めていたので、国内に赤十字のような組織をつくることが国際社会で日本が認められることにつながると考えて頑張ったのだと思います。

生徒❺ 佐野はどれくらいの人命を救ったの?

多久島デスク 幕末のころの日本の人口は約3600万人だったそうです。だから、ちょっと大げさかもしれませんが、「最大で3600万人の命を救おうとした」と考えてもいいのではないでしょうか。

 

【授業を聞いて・みんなの感想】

A組 高野 優さん

 昨年の夏休みに佐野常民記念館に行き、佐野常民が敵、味方を関係なく助ける「医学の神」だということをすでに学んでいた。今回、記者さんの話を聞いて、あらためて、佐野常民は偉大な人だと感じた。まだ佐野常民のことを知らない人に、多くの分野で活躍した人だということを伝えたいと思った。

 

C組 吉田 凜さん

 佐野常民が敵、味方関係なく命を大切にし、内乱を収めたいと思っていたということがとても印象に残った。日本のために行動を起こした佐野常民のように、私もほかの人のために動けるような人になりたいと思った。そのために、まず、自分のことをもっとしっかりしていきたいと思った。

 

【さが維新塾特設ウェブサイトに収録 おすすめワークシートを紹介】

交通事故 発生件数、負傷者数 佐賀 最悪レベル(2019年1月19日付)

 

 佐賀県の交通事故の状況について読み取り現状をつかむとともに、運転マナーの悪さや交通安全対策のアイデア、事故防止のために自分たちにできることを考えながら、身近な地域の問題としてとらえるようにしました。(多久島文樹NIE推進デスク)

ワークシートのダウンロードはこちらから↓

「さが維新塾」の特設ウェブサイト

http://www.saga-s.co.jp/sagaishinjuku.html

 

▶︎「さが維新塾」出前授業の希望中学校を募集しています。

【問い合わせ】佐賀新聞社営業局アド・クリエート部

☎0952(28)2195(平日9:30~17:30)

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