カット・大串亮平

 武家社会の主従関係は「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」で成立していた。一方が尽くすだけの片務的なものではなく、主君と家来は互いに利益を与え合う互恵関係にあった。大名は家臣に俸禄を与え、家臣は軍役と警護に就いた。主君に深い御恩を感じた家来は、主君が亡くなると、後れてはならぬと「追腹(おいばら)」を切った。追腹の研究で知られる東大名誉教授古川哲史(てつし)の著書「葉隠の世界」には、数々のケースが紹介されている。

 そのひとつに初代藩主鍋島勝茂(かつしげ)の世継(よつぎ)であった忠直(ただなお)に殉じて死んだ江副金兵衛(きんべえ)の話がある。金兵衛は忠直が重態に陥ると「わが指1本を7日に代えて若殿様の寿命を延ばさせたまえ」と神仏に祈願、すでに2本を切って3本目に及ぼうとしたところで忠直が逝去した。(古川哲史著「葉隠の世界」より)

 初代藩主鍋島勝茂の病気が重篤になった時、志波(しは)喜左衛門(きざえもん)は「ご本復(ほんぷく)は難しそうですから、お命代わりにお先に腹を切ります。場合によればご回復なさるかもしれません。いずれお供する身、お許しを」と「先腹(さきばら)」を願い出たので、第2代藩主光茂が増上寺の和尚に尋ねたところ「大切な武士です。命代わりなど許されることではありません」との返答で、切腹を差し止められたという話もある。(聞書四76節)

 「葉隠」の中には「殉死(じゅんし)」という表現はない。また追腹は殿様に限らず御恩のある当主、親族に対して行われる例も見られる。いずれ後の項でさまざな逸話を紹介するが、追腹はだれでも勝手に切ってよいものではなかった。三途(さんず)の川のお供をするにも、お殿様の存命中にお許しを得る必要があった。古川は「敵陣に飛び込んで討ち死にするのは立派であるが、軍令に背いて抜け駆けをして死んでは功にはならない。お許しのない殉死は犬死である」と解説している。

 鍋島光茂は寛文元年(1661)、全国に先駆けて追腹を禁じた。鍋島勝茂の子で、光茂の叔父に当たる白石(三養基郡北茂安村)の鍋島直弘(なおひろ)が44歳で逝去し、家来36人が追腹しようとしていることを聞き、直ちに家老2人を遣わして追腹法度(はっと)を厳達した。「追腹(おいばら)御停止(ごちょうじ)」とも言う。山本常朝が生まれて間もないころのことだった。従って、長年仕えた光茂が死去した元禄13年(1700)には、常朝に追腹は許されなかった。

 もし禁令を破ればお家断絶という厳しい法度であった。翌寛文2年紀州徳川家でも追腹を禁止し、さらにその翌年にはついに幕府が「追腹」を国禁とした。禁止以前、全国の数ある藩主の中で、追腹が最も多かったは勝茂の26人である。(葉隠研究会副会長・大草秀幸)

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