カット・濱智子

 「令和」の新時代が開けた。明治維新後は「令和」まで5人の天皇に五つの元号だが、江戸時代は「元和(げんな)」から「慶応」まで15人の天皇下で35もの元号が目まぐるしく変わった。「葉隠」の誕生は、江戸時代15番目の「享保(きょうほう)」年間だった。

 聞書第一3節にある「武士道と云ふは、死ぬ事と見つけたり」が、「葉隠」のすべてを象徴する封建道徳であるかのように解釈されてきた。だが深く読み込んで玩味(がんみ)するがよい。「葉隠」は死を美化する哲学ではないことは明らかである。

 作家三島由紀夫は、「葉隠」を”逆説の本”だと言った。また自由を説いた書物であり、情熱を説いた書物であると語った。「葉隠」が必読の書のように言われた戦争時代が終わったあとで、かえって光を放ち出したとも言っている。

 多くの研究者や歴史家が「死ぬ事と見つけたり」を評論している。新渡戸稲造の「武士道」を翻訳し、中世史・幕末史の研究者として名高い歴史家奈良本(ならもと)辰也(たつや)は、「思想の偉大さは極端論のなかにのみある」というフランスの偉大な作家・批評家グウルモンの言葉を紹介したうえで、「極端な議論とは常識を破った議論であり、激しい言葉で語られる真実である。そして『葉隠』の一節一節は、まさに当時においても極端論であったに違いない」と述べている。

 葉隠研究会の研究会誌19号(1992年)の会員投稿欄に佐賀市富士町の山中濶(ひろし)は「『葉隠』の真意、目的は一生落ち度なく自分の家職を仕果すべきこと。死ぬ事と見付けたりは手段である」と書いている。陸軍士官学校を出て南方戦線を転戦した大尉で、昨年9月に97歳で他界した。さらに「突撃する前、待機のときに死の予感恐怖が一瞬頭をよぎる。でも与えられた自分の職責、任務がそれを許さない。常朝(じょうちょう)流に言えば、『この境あやうきなり』だ。突撃するときに思慮分別の入る余地はない。ただ驀進(ばくしん)する。結果として弾丸の当たる者、生き永らえる者があるだけが実相だ」とも書き残した。

 ただし「死身」「死狂い」を語った山本常朝も一方では次のようなこともサラリと言ってのける。

 人間一生は、誠に纔(わずか)の事なり。好(す)いた事をして暮(くら)すべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして、苦を見て暮すは愚(おろか)なることなり。此の事は、わろく聞いては害になる事(こと)故、若き衆(しゅう)などに終(つい)に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境涯相応(きょうがいそうおう)に、いよいよ禁足して、寝て暮らすべしと思ふとなり。(聞書第二85節)

 なんとも拍子抜けするおおらかさではないか。逆説法を採用するにいささかの躊躇(ちゅうちょ)もない。(葉隠研究会副会長・大草秀幸)

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