武士道といふは、死ぬ事と見附(つ)けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附(かたづ)くばかりなり。別に仔細(しさい)なし。胸すわって進むなり。図(ず)に當(あた)らぬは犬死(いぬじに)などといふ事は、上方風(かみがたふう)の打上りたる武道なるべし。

 これが「葉隠」を有名にした聞書第一3節冒頭の節文である。武士道書といえば、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の「武士道」をはじめ宮本武蔵(みやもとむさし)の「五輪書(ごりんのしょ)」、大道寺(だいどうじ)友山(ゆうざん)の「武道初心集」など数多い。だが、冒頭の強烈な一句で、これほどまでに読む人の心をわしづかみにしたキャッチコピーはない。現代語訳がなければ、山本常朝(じょうちょう)の思いを正しく理解することは難しいかもしれない。まず、武士は戦闘者であることを念頭に置かなければならない。節文には続けて、

 二つ二つの場にて、図に當るやうにするは及ばぬ事なり。我人(われひと)、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が附くべし。若(も)し図にはづれて生きたらば腰抜(こしぬけ)なり。この境(さかい)危(あやふ)きなり。図にはづれて死にたらば、犬死氣違(きちがい)なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身(じょうじゅうしにみ)になりて居(を)る時は、武道に自由を得、一生落度(おちど)なく、家職(かしょく)を仕果(しおほ)すべきなり。

 「生か死かのふたつにひとつのときは、死ねばよい。何も迷うことはない。覚悟を決めて突き進めばよい。目的を果たせずに死ぬのは犬死だなどと言うのは、上方風(京都など都会風)の軽薄な武士道である。狙いを外して死んだとしても、恥にはならない。朝に死に、夕に改めては死んで、いつも死身になっていると、武道に自由を得て立派に仕事をし果たすことができるのだ」 

 そう言い切っている。では、常朝は死を礼賛(らいさん)し、「つべこべ言わずに死ねばいいのだ」と言っていると誤解してはいけない。「人は誰しも、死ぬよりは、生きるほうが好きである」とも言っている。人命を軽視していたわけではない。いつも「死」を覚悟しておくことによって、充実した「生」を獲得することができると言っているのだ。

 宇宙飛行士も登山家も冒険家も、「死」を思わずしてチャレンジすることはできないし、目的を達することもできない。常朝が得意とするこの逆説を、私たちは読み取らなければならない。「葉隠」を象徴する大事なこの一節一句である。次回も語ろう。(葉隠研究会副会長、大草秀幸)

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