明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は神埼中(神埼市)の2年4組です。(授業実施1月11日)

【きょうの教材】

「佐賀戦争」勃発 明治7(1874)年

「佐賀維新新聞」2018年9月7日付

 元司法卿の江藤新平が率いる征韓党と、元北海道開拓使判官の島義勇が率いる憂国党の連合軍が2月18日、佐賀県庁が置かれた佐賀城周辺で政府軍と戦闘となり、政府軍を佐賀城から撤退させた。維新改革の反動で積もるばかりだった旧士族の不満が爆発し連合軍の意気は上がったが、政府側は実権を握る大久保利通が自ら鎮圧の指揮を執っており、物量に勝る政府軍の反転攻勢は必至。
 昨年(明治6年)10月、征韓論を背景にした参議・西郷隆盛の朝鮮派遣が大久保利通らの反対で中止になったことを受け、西郷、江藤、副島種臣ら多くの政府幹部が辞任した政変から、全国の旧士族の間で不満が高まっていた。佐賀では征韓論を唱える征韓党や、封建制の復活を主張する憂国党が活動を活発化させていた。

■「佐賀戦争」が終結 明治7(1874)年 「佐賀維新新聞」2018年9月21日付

 江藤新平が率いる征韓党と、島義勇が率いる憂国党の佐賀士族連合軍が、明治政府に対して起こした佐賀戦争。佐賀士族軍は当初、佐賀城に駐留する政府軍を撤退させ、城を占拠した。しかし、新たに大久保利通の率いる政府軍が九州に到着すると状況は一変。激戦の末、佐賀士族軍は敗れ、2月28日に政府軍が佐賀城に入城した。
 征韓党を解散し県外に逃れた江藤は高知で、島は鹿児島で捕らえられ、佐賀に送還された。4月13日に佐賀で裁判が行われ、両者とも「梟首の刑」(さらし首)を申し渡され、その日のうちに処刑された。
 
【佐賀維新新聞】
 慶応3(1867)年以降の明治維新激動期をテーマに、当時の事件、人の動きを現代の新聞スタイルで描いた。「もし、今の新聞が当時にあったら?」ということを真面目に検証し、歴史を身近に感じられるようにと企画。2018年1月から12月まで月2回のペースで本紙に連載した。



征韓論で国内対立、なぜ

神埼中学校2年4組

野田英樹先生 きょうは明治時代初期の「征韓論」をテーマに、優先すべきは「日本国内の整備」か、日本の安全を守るという意味で「朝鮮に独立を促すこと」か、を考えたいと思います。佐賀新聞社の江島貴之記者に話してもらい、皆さんが判断する材料を提供してもらいます。
江島貴之記者 明治4(1871)年から6(1873)年にかけ、岩倉使節団一行が欧米視察に出掛け、西郷隆盛ら日本に残った人たちが「留守政府」となりました。使節団と留守政府は「新しい政策を打ち出すことはしない」と約束していましたが、留守政府は「学制発布」「グレゴリオ暦(太陽暦)導入」「徴兵令」など次々に実行しました。
 これまでの生活が大きく変わるので国内で反発が起こりましたが、特に徴兵令は士族(武士)から大きな反発がありました。「国民から広く兵士を募って軍隊をつくるので、武士はもういらない」と言われたようなものだからです。そういう時期に「武力で朝鮮を開国させよう」という「征韓論」が持ち上がりました。

 

 当時、朝鮮は清(現在の中国)の影響を大きく受けて鎖国しており、ロシアも朝鮮に関心を持っていました。明治になり、日本は朝鮮に開国を強く求めましたが、朝鮮は応じません。征韓論は「外交問題を武力で解決する」という考えで、現代では理解しがたいことですが、当時は必ずしもそうではありませんでした。
 留守政府は西郷を開国交渉に派遣する予定でしたが、そこに使節団が帰ってきて、使節団を中心に「外国と戦争している時ではない」と主張する「内治派」と「征韓派」の争いになりました。国の行く末が見通せない時代に互いに譲れない考えを持っていたことや、士族の不満をどうするかという問題も絡んで二つの立場に分かれてしまいました。
 佐賀出身で言えば大隈重信、大木喬任は内治派。江藤新平、副島種臣は征韓派。結果は内治派が勝ち、征韓派の人たちは政府を辞めます。征韓論は沙汰止みとなって士族の不満だけが残ることになり、やがて明治7年の佐賀戦争(佐賀の乱)、10年の西南戦争が起こります。佐賀戦争では江藤新平が征韓党、島義勇が憂国党という士族グループのリーダーに推され、敗れて二人とも処刑されました。
野田先生 これまでの授業や江島記者の話を聞いて、自分なら「国内整備」「朝鮮独立を促す」のどちらを優先させるか。グループで話して、その結果を黒板に名前を貼って表明してください。 
〈グループに分かれて討議〉
野田先生 クラス全体では内治優先が多いですが、征韓派支持も5人ほど。両方にまたがっている人もいます。それぞれの理由は? まず内治優先から。
生徒1 外国を気にするより自分の国を豊かにした方がいい。
生徒2 国内のやるべきことをやってからほかのことをやればいい。
野田先生 征韓派は?
生徒3 外国との関係を考えておくことも大事だと思う。
野田先生 両方にまたがっている人は?
生徒4 両方を一緒に進めていくのがいいと思った。
野田先生 最後に江島さんに何か質問がありますか。
生徒5 朝鮮はその後、どうなったの?
江島記者 征韓論は実行されませんでしたが、後に日本とロシアが戦争した結果、日本が朝鮮に対し優先的に影響力を持っていいということになり、明治43(1910)年に日本が朝鮮を併合してしまいます。そのことが日本と韓国の関係に影響していて、現在も決して仲のいい間柄とは言えないことは感じてほしいと思います。

 

授業を聞いて・みんなの感想

増田 颯太さん 当時の日本は、朝鮮の独立を促すよりも、国をきちんとつくるために、国内の整備を優先するべきと思った。記者さんの話を聞いて「征韓論」について知ることができたのは、とてもよかった。政府の要職にいた佐賀出身の人たちも「国内政治優先」と「朝鮮独立を促す」の両派に分かれて争ったということが印象に残った。

平野 花奈さん 国民全体から兵士を募る「徴兵令」に対し、「仕事がなくなる」という士族(武士)からの反発がすごかったということを記者さんの話で初めて知った。「国内整備」と「朝鮮独立を促す」は同時に進めていくのがいいと思った。でも、士族がかわいそうと感じ、「独立を促す」を優先した方がいいのかなと、授業の途中で思ったりもした。


 

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