明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は北茂安中(みやき町)の2年1組です。(授業実施2019年1月9日)

【きょうの教材】

米ロの開国要求 嘉永6(1853)年

「さが維新前夜」2017年7月22日付

プチャーチンが乗っていたロシア軍艦「パルラダ号」を描いた「白帆注進外国船出入注進のうち、パルラダ号の図」(公益財団法人鍋島報效会所蔵/佐賀県立図書館寄託)

 嘉永6(1853)年6月上旬に米国海軍提督ペリーが、軍艦で浦賀(神奈川県横須賀市)に来航。その2週間余り後、佐賀で状況を聞き及んだ長崎警備の責任者の一人、池田半九郎は日記に記した。〈亜米利加船四艘、浦賀へ渡来、同所乗り入れ江戸近海本牧辺り乗り廻り候につき、諸大名へ所々固めなど仰せ付けられ、江都大いに相騒ぎ候〉
 灯火油や潤滑油として鯨油の需要が増していた米国は、捕鯨船の補給地を確保するため、日本の開国を狙っていた。ペリーが長崎でなく、江戸近辺を目指したのは、大型軍艦で江戸城を威圧することで、幕府の譲歩を最大限に引き出す狙いがあったとみられている。黒船の来航は幕府を慌てさせた。佐賀藩の家老の日記には、幕府が佐賀藩に鉄製大砲200門を注文したことが記され、急きょ海防態勢を整えようとした様子がうかがえる。
 藩主鍋島直正の言動を記録した「直正公御年譜地取」によると、直正は黒船来航を〈国家の御一大事〉と深刻に受け止めている。外国との通商を「許容すべきでない」と考え、外国船を「断然打ち払うべき」と幕府に進言している。

ペリー来航時の佐賀藩の対応などが記述されている池田半九郎の日記「池田私記 嘉永六年七月十八日条」(公益財団法人鍋島報效会所蔵/佐賀県立図書館寄託)

 ペリーは米大統領の親書を幕府に渡し、開国要求に対する返答を1年後に得る旨を告げて、長崎に回航することなく去ったが、その8日後の7月18日、今度はプチャーチン率いるロシア艦隊が長崎に現れた。プチャーチンもペリーと同様、開国を要求。佐賀藩は直ちに警備の藩士らを派遣した。フェートン号事件の苦い記憶が脳裏をかすめたのか、直正は〈必ず手抜かりの儀これ無きよう〉と送り出している。
 武力を前面に出したペリーと異なり、プチャーチンは友好的な態度で交渉に臨んだ。旗艦パルラダ号に佐賀藩の視察団も受け入れている。ロシア艦隊は上海に回航した約1カ月間を除き、翌年1月まで長崎にとどまり、「日本が他国と通商条約を締結した場合、ロシアにも同一条件の待遇を与える」との合意を幕府から引き出すと、ようやく長崎から去っていった。その後のロシアの動きは、佐賀藩の関心を蝦夷地(北海道)に向かわせることになる。

<P説>
プチャーチンが乗っていたロシア軍艦「パルラダ号」を描いた「白帆注進外国船出入注進のうち、パルラダ号の図」(公益財団法人鍋島報效会所蔵/佐賀県立図書館寄託)

ペリー来航時の佐賀藩の対応などが記述されている池田半九郎の日記「池田私記 嘉永六年七月十八日条」(公益財団法人鍋島報效会所蔵/佐賀県立図書館寄託)


直正、国守るため開国に反対

北茂安中学校 2年1組

山岡貴秀先生 佐賀新聞の連載記事「さが維新前夜」を書いた記者さんの話を聞いたりして、幕末の「開国をめぐる当事者の動き」を勉強したいと思います。日本の開国を求めて浦賀にやって来たのがペリー。当時の幕府の代表者で日米和親条約を結んだのは、教科書には出てきませんが阿部正弘という老中でした。そして、佐賀藩主の鍋島直正にも注目してみます。鍋島直正が日本の開国に関係あったのでしょうか。
 これまで学習したことを基に、今の時点の考えとして、「日本を開国させる」という目的に対してペリーは「よくやった」のか、あるいは「まあまあ頑張った」「もう少しうまくやれたのでは」「全然だめだった」。逆に、幕府側(老中阿部正弘)の対応はどうだったのか。何人か意見を聞かせてください。
生徒1 ペリーは日本を開国させることに大きく貢献したので「よくやった」と思う。
生徒2 ペリーの圧力に負けたので、幕府は「もう少しうまくやれたのでは」と思った。
山岡先生 立場を変えて考えると、とらえ方も違ってくるということですね。では、記事を書いた瀬戸健太郎記者の話を聞きたいと思います。
瀬戸健太郎記者 アメリカの開国要求に対して「鍋島直正がどういう動きをしたか」を、この記事で書きました。結論から言うと、直正は開国に反対しました。直正は西洋文明を積極的に取り入れて佐賀藩を改革した人なので、開国を進んで受け入れたかと思うと、実は生涯のほとんどが、外国人を排斥する「攘夷」という考えでした。理由としては、佐賀藩が長崎を警備していた時に英国船が侵入してきた「フェートン号事件」のことや、英国が中国の領土を奪ったアヘン戦争についての情報を持っていたので、「開国すると日本を侵略されかねない」との不信感を外国に対して持っていたことが考えられます。反対意見を将軍にも進言しています。
 佐賀藩では「黒船が浦賀から長崎に回って来るのでは」と考えて、長崎警備を強化します。結局ペリーは長崎には来ず、ロシアの艦隊がやってきました。このロシア艦隊から長崎を守るため、佐賀藩は半年間ほど警備を続けました。警備は大変だったという記録が残っています。
山岡先生 今の話で鍋島直正とペリー来航との間に「何か関係がありそう」ということがつかめたと思います。では、班に分かれて、先生や記者さんも入って意見交換をします。
 〈ある班での生徒の意見〉
生徒3 鍋島直正が当時の世界の情勢を知っていて、攘夷を唱えていたというのはすごい(優れている)と思う。
生徒4 直正は外国(欧州)の怖さを知っていたので、大砲などの新しい技術を取り入れるという進んだ考え方をもっていたことが分かった。
生徒5 佐賀藩は長崎警備をしていて、フェートン号事件やアヘン戦争のことを知っていたから、直正は対策を考えた(西洋の進んだ技術を取り入れようとした)のだということが分かった。
瀬戸記者 私が入った班の意見交換を聞いているとペリー、阿部正弘、鍋島直正のそれぞれに対して「よく頑張った」「不十分だった」という意見が出て、面白かったです。鍋島直正は教科書にあまり出てこないし、これまで広く知られてきませんでした。でも、直正について興味を持った人がいたら、佐賀市の徴古館という博物館をぜひ訪ねてみてください。鍋島家に関する資料がたくさんあって、直正という人のすばらしさがよくわかると思います。

 

授業を聞いて・みんなの感想
原 優介さん 日本の開国では、ペリー来航に関する歴史の流れや、起こった出来事を授業で学んできたが、今回、関連した人物について考え、違う視点で学ぶことができた。教科書には載っていない、当時の佐賀藩や鍋島直正についても知ることができた。先生方や記者さんたちとも意見交換ができ、とてもいい経験になった。


中嶋 梨乃さん ペリー、阿部正弘、鍋島直正の3人が、当時どんな考え方をしていたのか、これまであまり知らなかった。だけど、新聞記事や教科書などを読んで自分なりの考えをまとめて、グループや記者さんたちと意見交換してみると、自分に似た考えや、自分とは違う考えの人がいて、とても新鮮で楽しかった。

 

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