猫化け騒動

 佐賀鍋島藩と聞けば、「猫化騒動」を連想する人が少なくない。巷(ちまた)では龍造寺から鍋島への政権移譲を“無血クーデター”ともうわさした。「鍋島騒動」と呼ばれたゴシップは格好の話題となり、芝居や講談にもなった。根も葉もないストーリーだが、尾ひれがついて脚色され、鍋島のお殿様が、夜な夜な現れるおどろおどろしい大きな怪猫(かいびょう)に悩まされ、ご家来衆がこれを退治するという筋書きである。 

 龍造寺隆信の世嗣政家(まさいえ)は病弱であったために、鍋島直茂に領国支配を委ねるほかなかった。龍造寺一門の中には、重臣の直茂に権力を絡め取られていくのを、悔し涙で従わなければならなかった家臣もいた。慶長12年(1607)、政家の嫡子高房(たかふさ)が「家来の臣下にはならぬ」と苦悶のうちに自殺同然の死を遂げ、龍造寺の嫡流ちゃくりゅう(本家の血筋)は断絶した。そこから鍋島への「怨み」が尾を引く。 

 高房には妾腹の遺子季明(すえあき)(伯庵)がいた。伯庵は公儀こうぎに対し幾度も龍造寺再興の訴訟を繰り返したが、聞き入れられず会津藩主保科ほしな正之のもとへお預けとなった。幕府も放っておけず、龍造寺一門の重臣3人を江戸に呼び寄せ、意見聴取をしている。3人は異口同音に直茂の功績を高く評価し、初代藩主には勝茂がふさわしいと推挙したのである。これによって家督相続問題は決着した。

 それから200年余も経た嘉永6年(1853)、歌舞伎「花瑳峨猫又雙子」が江戸の中村座でかかった。怨みの化身となった怪猫が跳梁跋扈する猫化け騒動だ。中村座は初代中村勘三郎が興した歌舞伎江戸3座の筆頭。この年、米使ペリーが蒸気船の艦隊で浦賀に来航した。「太平の眠りを覚ます上喜撰(宇治の銘茶)たった四杯で夜も眠れず」との狂歌も生まれたほどに、江戸市中は蜂の巣をつついたような大騒動となった。

  一方、中村座の猫化け芝居に、「鍋島の名誉を傷つけるものだ」と佐賀藩がクレームをつけると、幕府が上演を禁じた。幕府はペリーへの回答を引き延ばしていったん米国へ引き上げさせ、大慌てで江戸湾防備のために佐賀藩に大砲200門を注文した。これに応えて50門を品川お台場に納めた。当時、鉄製大砲を受注できるのは佐賀藩以外になく、芝居ごときで機嫌を損ねるわけにはいかなかった。 

 それでも芝居好きの江戸市民。江戸幕府も終焉間近の元治元年(1864)には、またぞろ「百猫傳手綱染分」と演目を変えて化け猫が躍り出る。(葉隠研究会副会長・大草秀幸)

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