13回 光茂と常朝

藩祖鍋島(なべしま)直茂(なおしげ)と初代藩主勝茂(かつしげ)親子は鍋島家の心柱(しんばしら)であった。だが山本(やまもと)常朝(じょうちょう)にとっての“こころの柱”は、勝茂の孫の第2代藩主光茂(みつしげ)である。勝茂の嫡男(ちゃくなん)忠直(ただなお)が寛永12年(1635)に疱瘡(ぽうそう)を患い23歳の若さで他界したために、当時4歳だった忠直の嫡男光茂が世継(よつぎ)となった。祖父勝茂は光茂の成長を見守り、藩主を続けるほかなかった。

 江戸生まれ江戸育ちの光茂。成人して21歳となった承応(じょうおう)元年(1652)に佐賀入りし、勝茂逝去に伴い明暦(めいれき)3年(1657)に家督を継いだ。この年、江戸は大火に見舞われ城下の大半を焼失した。江戸城本丸も焼け落ちた。ローマ大火、ロンドン大火と並び世界3大大火といわれる「明暦の大火」である。

 常朝が9歳で小僧(こぞう)として仕えた時、光茂は36歳、精気あふれる主君であった「葉隠」の聞書第五は光茂の話題満載である。全国初の追腹(おいばら)禁止令や蓮池藩・小城藩・鹿島藩3支藩の統制など興味深い。ただしこの項では光茂が優れた歌人でもあったことを紹介するに留める。また常朝の一途な奉公ぶりも見逃せない。

 栗原(くりはら)荒野(あらの)編著「校註(こうちゅう)葉隠(はがくれ)」聞書第五19節に「鍋島光茂、祖父勝茂の厳訓を守って好きな歌道を隠密(おんみつ)に学ぶ」とある。光茂は思い立ったら一筋に没頭する性分だった。年寄役(としよりやく)たちは光茂の趣味が高じそうになると、その都度ブレーキをかけた。ただし「歌道なら害にもなるまい」と心許したのが間違いだった。

 勝茂の雷(かみなり)が落ちた。「歌は公家のすること、武家には無用じゃ」と歌書はすべて焼き捨てられ、「歌はやめる」との誓文(せいもん)を書かされた。年寄役は蟄居を命じられた。それでも光茂は諦めきれなかった。数年経つと再び古今(こきん)和歌集(わかしゅう)の歌学にのめり込む。戦乱の世は去り、先祖のように武辺で名を成すこともできない泰平の世である。光茂は、後世に名を残すには、武家では細川(ほそかわ)幽斎(ゆうさい)(肥後細川家初代忠興(ただおき)の父)だけが保持する「古今(こきん)伝授(でんじゅ)」をわが手中に収め、人生の宝にしたいと願った。 

 京都役となった常朝は、光茂の宿願(しゅくがん)を叶えようと決意する。大坂から京都へ、佐賀から京都へと幾度も通い、自らも古今和歌集を諳(そら)んじ、伝授の実現に総力を上げた。念願叶って大納言三条西(さんじょうにし)実教(さねのり)卿より古今伝授を受け、船と早(はや)駕籠(かご)を乗り継ぐと元禄13年5月1日、危篤状態に陥っていた光茂の枕頭(ちんとう)に届けた。50年来の本願を達した光茂は、満面の笑みで応えて常朝を労(ねぎら)い、五月雨(さみだれ)降る5月16日夕、佐賀城本丸で静かに息を引き取った。(大草秀幸 葉隠研究会副会長、火曜連載) 

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