直茂と初代勝茂

 「葉隠」の口述者山本(やまもと)常朝(じょうちょう)が最も敬愛していたのは、33年にわたってお側(そば)に仕えた第2代藩主鍋島(なべしま)光茂(みつしげ)であろう。だが、葉隠聞書を読み進めると、彼が特に尊崇(そんすう)する人物は藩祖直茂(なおしげ)と初代藩主勝茂(かつしげ)ではなかったか思えてくる。 

 豊臣秀吉が太政大臣となって天正(てんしょう)15年(1585)に九州を平定、知行割(ちぎょうわり)を行った。龍造寺(りゅうぞうじ)佐賀藩の領主政家(まさいえ)に認められた領地は、肥前国の中のわずか7郡。すなわち佐賀、小城、神埼、三根、杵島、藤津、松浦だけで、もはや隆信(たかのぶ)が「五州二島(ごしゅうにとう)の太守(たいしゅ)」といわれたころの面影はなかった。同時に直茂に養父(やぶ)郡(鳥栖地域)の半分と神代(こうじろ)領(島原)の一部など4万4500石、勝茂に7千石を与えて所領を安堵した。ここに鍋島父子は、龍造寺から独立した秀吉の直臣(じきしん)と認められたのである。

 間もなく秀吉は大明帝国の征討をもくろみ、15万8千人もの「唐入(からい)り」の軍勢を整えて、文禄元年(1592)から文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役を起こす。東松浦半島は鎮西町の岬に、わずか8カ月で5層の天守閣がそびえる肥前名護屋城が完成する。全国から諸大名が周辺に陣を築いて、往時は人口10万を超える城下の賑わいとなった。加藤(かとう)清正(きよまさ)らと1万2千の軍を率いる直茂は名実ともに肥前の領主であった。

 政家は隠居の身となり、軍役も免じられていた。大坂の秀吉のもとに預け置かれた嫡子高房(たかふさ)は名ばかりの領主で、その実、人質であった。家臣である直茂の臣下扱いの屈辱に耐えかねて自殺を図った。龍造寺父子が亡くなると直茂は隠居、徳川幕府のもとで慶長12年(1607)には勝茂が佐賀藩35万7千石を治める初代藩主の座に就いたのである。

 直茂が自らを「藩主」と名乗らなかったのは、主家である龍造寺一門への配慮であった。幕府も龍造寺の重臣を呼んで質したが、家臣団のだれもが、勇猛で知略(ちちゃく)に長(た)けた直茂に信頼を寄せていたうえ、直茂が高房の祖父隆信と義理の兄弟であることからも、勝茂を鍋島の初代佐賀藩主とすることに異論はなかった。直茂は後に佐賀藩の「藩祖(はんそ)」と呼ばれる。

 勝茂は慶長の役では直茂とともに参戦する。慶長3年(1598)に秀吉が63歳で没すると帰国、2年後の関ヶ原の戦いでは、勝茂は豊臣方の西軍についた。領国安堵を睨(にら)んで徳川の東軍に肩入れしていた直茂は、戦況を「東軍有利」と見るや、勝茂に急使を送って徳川に寝返るよう指示を与えた。筑前福岡初代藩主黒田(くろだ)長政(ながまさ)の仲介もあってことなきを得たが、百戦錬磨の直茂のしたたかさが佐賀藩を守った。

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