無血の政権委譲

 佐賀藩に「葉隠」が生まれる以前の時代背景を考えてみる。島原・沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が戦死すると、鍋島直茂(なべしまなおしげ)は領内の筑後柳河城(やながわじょう)に引き籠(こも)った。じっと後継選びの行方を見守ったのである。33歳の継嗣(けいし)政家(まさいえ)がどう出るか。早くも両家の駆け引きが始まっていた。

 2年後の天正(てんしょう)14年(1586)、豊臣秀吉が太政大臣となり、九州を平定する。龍造寺家は、秀吉にも覚えめでたく家臣団からも信頼の篤(あつ)い直茂を頼みとしていた。病弱であった政家はやむなく領国支配権である「御家裁判(おいえさいばん)」を直茂に与えた。その結果、「直茂が首領ならばよし」と見た秀吉は、政家を龍造寺佐賀藩の大名と認めて領地を安堵(あんど)し、西九州最大の藩となった。直茂の働きに恩を感じた政家は、改めて直茂の処遇について秀吉に決裁を仰いだ。

 秀吉は全国統一を成し遂げた天正18年(1590)に返答してきた。「藩主は5歳の龍造寺藤八郎(とうはちろう)(高房(たかふさ))とし、直茂への御家裁判を認める」。これにより直茂が名実ともに佐賀藩のトップとなった。政家は隠居し、軍役も免除された。しかし戦乱の世は終わっていない。領国支配権を無血で譲り渡すということは尋常ではない。ほどなく文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役が始まり、さらには天下分け目の関が原の戦いである。

 「佐賀の鍋島は龍造寺を乗っ取った」とささやかれた。政家は政権を譲る際に、直茂に対して「わが子高房が成人すれば必ずや政権を返すように」と念押しをしていた。念書も取った。だが直茂はその時がきても耳を貸さなかった。関ヶ原で豊臣方が破れ、慶長8年(1603)には徳川家康(とくがわいえやす)が江戸幕府を開く。鍋島勝茂(かつしげ)が大坂方に味方していたために、直茂はすかさず勝茂を家康のもとに出仕させ、高房を第2代将軍となる秀忠(ひでただ)に仕えさせた。家康に恭順の意を表して関ヶ原の汚名を挽回した直茂の見事な采配に、両家家臣団は感服した。その裏では隠居の身の政家が、次第に直茂・勝茂親子を恨むようになっていた。

 慶長12年(1607)、龍造寺江戸屋敷で大事件が起こる。高房が「『家臣の臣』となって恥を晒(さら)すくらいなら、死んで恨みをはらす」と、直茂の孫娘である妻を道連れに自殺を図ったのだ。だが自らは死にきれずに、半年後に毒フグを食べた上に乗馬大会に出て吐血し、22歳の若さで死んだ。父政家も直茂を恨みながら後を追うように亡くなった。(葉隠研究会副会長・大草秀幸)

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