龍造寺と鍋島

 「佐賀では時代の古いことを“剛忠(ごうちゅう)さんの代”といふ」。昭和20年1月に刊行された佐賀市史上巻の第3章の書き出しである。剛忠とは龍造寺(りゅうぞうじ)家第13代康家(やすいえ)の第4子家兼(いえかね)のことで、龍造寺中興の祖として名高い。だが龍造寺家を隆盛の頂点に導くのは、家兼の孫周家(ちかいえ)の長男として生まれた龍造寺隆信(たかのぶ)である。

 猛将の名轟(とどろ)く隆信は天正7年(1579)から肥前、肥後、筑前、筑後、豊前の5国と壱岐(いき)・対馬(つしま)を平定し、“五州二島(ごしゅうにとう)の太守(たいしゅ)”とも称された。このころ九州は東部をキリシタン大名として知られる大友宗麟(おおともそうりん)(義鎮(よししげ))、南部の薩摩、大隅、日向を治めた島津義久(しまづよしひさ)の3氏で支配していた。

 群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)する戦乱の時代。宗麟が8万の大軍で佐賀に攻め入り、3万の兵を投入して命運をかけた佐賀北方の「今山の合戦」では、鍋島直茂(なべしまなおしげ)が龍造寺軍の陣頭を指揮した。600余騎で敵陣に奇襲をかけ、敵将である宗麟の弟親貞(ちかさだ)を討ち取り、豊後に敗退させた。臆(おく)せず怯(ひる)まず、隆信の右腕となって龍造寺の危機を幾度も救った直茂の地位は不動のものとなった。 

 そもそも直茂の父清房(きよふさ)は、隆信の祖父家純(いえずみ)の長女を娶(めと)って直茂ら4人の男児を生んだ。なかでも天文(てんぶん)7年(1538)に生まれた次男直茂は、知勇兼備(ちゆうけんび)の武将になった。

 天正12年(1584)、島津・有馬連合軍との雌雄(しゆう)を決する島原・沖田畷(おきたなわて)の戦いで、隆信が不覚の戦死を遂げる。島原城に集結した敵勢は5千。これを一気に攻め滅ぼそうと逸(はや)る隆信を、「敵の内情を知らずに突き進むのは無謀」と直茂は思い止まらせようとするが、出兵を強行する。島原城の前の細い一本道を攻めくる佐賀勢は弓と鉄砲で狙い撃ちにされ、総崩れとなる。沼地に足を取られて身動き取れなくなった巨漢の隆信が、ついに討ち取られてしまう。主を失った龍造寺の領国を安堵(あんど)(土地所有や施政権を将軍や領主が承認すること)には、武勇・識見ともに優れ、経験豊富な46歳の重臣直茂に頼るほかなかった。しかし、智将直茂は筑後柳川城に引き込もってしまう。政権移譲に向かう両家の微妙な駆け引きである。 

 隆信の継嗣政家(けいしまさいえ)は病弱であったために、天正14年(1586)には領国支配権を認めるという「御家裁判(おいえさいばん)」を直茂に与えたのだった。ここから着々と佐賀鍋島藩の礎(いしずえ)が築かれていくことになる。(大草秀幸、葉隠研究会副会長)

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