第2代藩主鍋島光茂(みつしげ)の御側役(おそばやく)として親身(しんみ)になって奉公していた山本常朝(やまもとじょうちょう)は、20歳を過ぎたばかりのある日、突然、御役御免(おやくごめん)となった。失職である。そのころ常朝は、主君に忠義を尽くそうとの心構えから徹底した禁欲を励行、体質改善に取り組んでいた。つまり女性を遠ざけていた。 

 光茂は歌道に執心で、古今和歌集の解釈についての最高の栄誉である「古今伝授(こきんでんじゅ)」を受けるのが宿願だった。常朝に文学の才をみとめて御書物役手伝(おかきものやくてつだい)としたが、常朝は若殿綱茂(つなしげ)のお相手も仕事と心得てたびたび出仕していたために、いつの間にか役目を外されていたのである。

 江戸参観のお供もなくなった。無為の日が続き、情熱も萎(な)えて武士を捨てようとまで悩んだ。そこで松梅村(佐賀市大和町)に隠棲している湛然和尚(たんねんおしょう)の華蔵庵(けぞうあん)を訪ねる。湛然は鍋島家菩提寺の高伝寺(こうでんじ)の第11世住職を務めた禅僧である。

 湛然に就(つ)いての修行により仏法を学ぶ。21歳にして教法の伝授「血脈(けちみゃく)」を、さらには生前葬儀の式ともされる「下炬念誦(あこねんじゅ)」を受けて仏法の高みに達している。葉隠四誓願(しせいがん)の最後の一つに、「大慈悲を起こし人の為になるべき事」がある。これは前の3つの誓願とは思想が異なり、仏教により学び取った精神であろう。また湛然はこうも言っている。

 出家は慈悲を表にして、内にはあくまで勇気を貯(たくわ)へざれば、仏道を成就すること成らざるものなり。武士は勇気を表にして内心には腹の割(わ)るるほど大慈悲心を持たざれば、家業立たざるものなり。

 武士たるものは、忠と孝とを片荷にし、勇気と慈悲とを片荷にして、二六時中、肩の割入る程荷なうてさへ居れば、侍(さむらい)は立つなり。

 常朝のもう一人の師は、佐賀藩随一の儒学者石田一鼎(いしだいってい)である。初代藩主鍋島勝茂(かつしげ)に仕え、その遺命によって光茂の御側相談役(おそばそうだんやく)となった人物。孤高の人であった。その剛直な気質ゆえに、光茂が追腹(おいばら)禁止令を打ち出したときに異論を唱えて退(しりぞ)けられ、伊万里の山代郷に幽閉された。寛文2年(1662)に8年間の蟄居(ちっきょ)を解かれて大和町松梅村梅野に移り住んだ。常朝は後に一鼎のもとで儒学を学び、「お家は自分ひとりで持ちこたえてみせる」という強い使命感と揺るぎない精神を身に着けた。

(大草秀幸・葉隠研究会副会長、火曜連載)

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