多くの子どもたちは、卒業文集など学年末で思い出を書いたり発表したりする際には楽しく美しい話にまとめます。そこだけをみて、素晴らしい1年(3年、6年)だったのですねと言えるはずはないのですが、私たち大人がこういうまとめを好み、誘導していることを忘れてはいけません。

 節目を縁としてそれまでを振り返るということは大切なことですが、思い出というのは個々人の記憶であり、いろいろなものがあるはずです。しかし他者に発表するとなると、前向きなものしか挙げてはいけない雰囲気があり、つらかったけれど糧になったという類のもの以外はつらさを表出できないのが現実です。

 1年の締めくくりや卒業に際しては感動を求められるということを子どもたちも気づいてきますし、今に始まったことではないので私たち大人もそのように育ってきたのですが、このことは当たり前のようであって実は重大な意味があると思います。

 良しあしで論じることではないですが、まずこれは、大人に対する忖度(そんたく)であり、子どもたちは思い出の表出も評価の対象であると理解していることを見落としてはいけません。また、終わりよければ全て良しが通用することも見抜かれています。大人は「結果が大事」と「過程が大事」を使い分けますが、さらに子どものためと保身のために使い分ける場合があります。いろいろあったけれど、結果的には学びになったとまとめるのが振り返りの美学。多くの子どもたちは実際に、区切りとしてさまざまな経験や体験をこのように受け止めていますし、つらく厳しい経験も楽しい経験も何一つ無駄にはならず生かすことができるのは事実です。部活や早起きのつらさに耐えて成長できた、大切な人との別れを経験したなどはまさにそうでしょう。しかし、虐待やいじめの経験について、特に渦中にあるもの、納得しようのないものまで美化したりなかったことにして発表せざるを得ない子どもたちもいます。

 つらいことは打ち明けるべきではなく、全部我慢して「良い話」として持っていくものだという感覚はここでも自然と培われ、助けを求めることのハードルを上げる要素は日常にたくさんあります。これらを変えることは難しいことから、大人には子どもたちが安心して助けを求められる雰囲気づくりが求められていると感じます。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

 

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