3人の武将

 山本常朝(やまもとじょうちょう)の出自(しゅつじ)は中野一門である。祖父中野神右衛門清明(じんえもんきよあき)は武雄に生まれ、戦国乱世にあって20歳で初陣。18箇所もの手傷を負いながら血まみれで生還、後に佐賀鍋島藩の藩祖となる鍋島直茂(なべしまなおしげ)に仕えた。龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)のもとで直茂とともに戦場を疾駆(しっく)する“大曲者(おおくせもの)”であった。天正12年(1584)、島原の沖田畷の戦いでは、戦死した隆信の跡を追い討ち死にしようとする直茂を叱咤(しった)して救出した。国許(くにもと)では伊万里地方の代官として鍋島藩の西の守りを固め、その後は直茂の遺訓で初代藩主鍋島勝茂(かつしげ)を側で助けた。

 父山本神右衛門重澄(しげずみ)もまた清明の気性を継いで、ひとかどの「曲者」であった。寛永14年(1637)12月に始まる島原の乱で武勇を発揮、有田皿山代官や楠久牧奉行となって陶磁器産業や牧畜業を振興した。

 血筋を受けて常朝も神右衛門常朝を名乗る。“神右衛門3代”である。なぜ「山本」の姓となったか。それは父重澄が男7人兄弟の3男で、名門山本助兵衛宗春(やまもとすけべえむねはる)の娘の婿養子となったからである。

 常朝は父重澄が70歳のときの子で2男4女の末っ子だった。高齢で子をつくった重澄は、常朝を「塩売りにでもくれてやろう」と言っていた。塩売りに養育を頼めば丈夫に育つとの言い伝えを頼みとしたのだろう。しかし、組頭の多久図書茂富(たくずしょしげとみ)に止められ、「松亀(まつかめ)」の名をもらって山本家で育てられた。重澄の躾(しつけ)は厳しかった。生まれて間もない子に「大剛(たいごう)になって殿のお役に立たねばならぬ」と幾度も耳元で吹き込んだ。また物心つくと「作り笑いをするな。相手の顔を真正面から見ることのできないような卑怯な男になるな。剛の者になるのだ。武士は食わねど高楊枝(たかようじ)でなければならぬ。書物を見るのは公家の役、中野一門は、樫(かし)の小太刀を握って武道に励むのが仕事である」と根性を叩き込んだ。その父も常朝が11歳のときに亡くなる。

 常朝は9歳のときに「不携(ふけい)」の名をもらって第2代藩主鍋島光茂(みつしげ)の側小姓(そばこしょう)として召し出された。それも勝茂に仕えた重澄の立派な奉公ぶりのお陰だった。常朝の父親代わりとなって育てたのは、血筋としては甥だが、20歳も年長の山本常治(つねはる)だった。硬骨漢(こうこつかん)の常治は古老の物語や武士としての生き方を教え込んだ。13歳で前髪を立て、名も市十郎(いちじゅうろう)、さらに20歳で元服すると権之丞(ごんのじょう)と改めては、剣術タイ捨流の腕を磨いた。ところがある日突然、「御役御免(おやくごめん)」となるのだ。(葉隠研究会副会長・大草秀幸)

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