多賀右金次の寄付が書かれている「寄附金台帳」(久敬社所蔵)

 多賀右金治。幕末、唐津藩江戸詰めの武士で、勝海舟から砲術を学んだり、小笠原長行と共に鳥羽・伏見の戦いにも参加、小笠原胖之助の江戸脱出の際には大刀を進呈するなどしました。

 この右金治が慶応4(1868)年、新橋竹川町に「花月楼」という料亭を開きました。開店当初、「花月楼」の裏の役割は、会津・箱館など戊辰戦争に従軍した唐津藩士の夫人を匿(かくま)ったり、武器や兵糧を調達して戦場に送るなど、支援の一翼を担っていました。

 ところが明治5(1872)年の新橋~横浜間の鉄道開通に伴い、新橋周辺が花柳界や政治家、軍人、実業家の会合場所等に利用されるようになると、右金治の才覚や人脈も相まって、「花月楼」は高級料亭として大繁盛しました。

 中には伊藤博文や大隈重信、奈良原繁など明治政府の高官もおり、時の政治を動かす人たちの宴会・会合場として利用されました。

 こうした大繁盛を受け、同じ新橋の烏森町に支店の「湖月楼」を開店、この「湖月楼」では小笠原胖之助の追悼会が行われるなど、東京に上京した旧唐津藩士たちも利用する料亭となり、日露戦争開戦に向けての会合である「湖月会」も「湖月楼」で行われました。

 明治維新後、勝海舟から「ようやくお上のお陰で食っている俺より(才覚でこれだけのものをつくり上げた)お前の方が偉い」と声をかけられるなど評価されました。

 かつて仇敵であった薩長を中心とする明治の要人たちから多額の遊興費や代金を取り立て、久敬社など旧唐津藩士たちの支援団体に寄付をしていた右金治は、戊辰の仇(あだ)をこうした形で返してやったと、密かにほくそ笑んでいたのかもしれません。

 (参考文献・佐野昭義「戊辰戦争を戦った唐津藩士栗原仙之助と親族」鶴見図書館30周年記念「花月園ものがたり」など)

 今回で「明治維新と唐津藩」は終筆となります。1年間ありがとうございました。

=おわり

 (黒田裕一・唐津市教育委員会兼唐津市明治維新150年事業推進室推進係長)

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