「葉隠」のプロローグは「夜陰(やいん)の閑談(かんだん)」である。とっぷりと日暮れて、鳥も眠りにつき、深い静寂と闇に包まれた金立山麓の草庵で、ほのかな行灯の明かりを挟んで山本常朝(やまもとじょうちょう)と田代陣基(たしろつらもと)の閑談が続く。陣基は右筆(ゆうひつ)として藩主に仕えていた時のように素早く筆を走らせる。

 

 御家来(ごけらい)としては、国学心懸(こくがくこころが)くべき事なり。今時、国学目落(めおとし)に相成(あいな)り候。大意は、御家(おいえ)の根元(こんげん)を落ち着け、ご先祖様方の御苦労御慈悲を以て御長久(ごちょうきゅう)の事を本(もと)づけ申すために候。

 

 これが「葉隠」の文頭である。「ご家来は国学を学ぶことを心懸けなければならない。今はそれがないがしろにされている。何より御家の根本を自分の胸に落ち着けることである」という。国学とは、歴代藩主と藩主に仕えた先祖たちの事跡(じせき)を学ぶこと。続けて「今時の人々はその事を忘れてしまって、よその仏ばかりを崇あがめている。とても承服できない」と嘆いている。よその仏とは何を指すのか。

 

 釈迦も孔子も楠木も信玄も、終ついに龍造寺、鍋島に被官懸(ひかんか)けられ候儀これなく候へば、当家の家風に叶い申さざる事に候。余所(よそ)の学問無用に候。

 

 「釈迦も孔子も楠木正成(くすのきまさしげ)、武田信玄(たけだしんげん)も、龍造寺・鍋島家に仕えたことはないのだから、当家の家風には合わない。だからよそのことを学ぶ必要はない」と言い切っている。これでは「何という思い上がり」と非難を浴びよう。しかし、いささかもひるむことなく、さらに「日峯(にっぽう)様(直茂)、泰盛院(たいせいいん)様(勝茂)の教えを主従皆が守っていけば、人々は落ち着き、国はしっかり物静かに治まるのだ。代々のお殿様には悪人も愚鈍な方もなく、全国の大名と比べても2番、3番に甘んじるようなお方は1人もおられない。不思議な御家である」と言っている。つまり、われらの殿が日本一と臆面(おくめん)もなく自慢している。

 これらの言いようは、誤解を受けることは承知の上での表現であり、「葉隠」を読み進めていくと、随所に「逆説の表現法」を用いていることがわかる。ただ誤解を解くためのフォローアップ、補説も手抜かりない。

 「葉隠」は、精気あふれる武士の生き方を語った書である。そして「夜陰の閑談」を締めくくるのが、有名な「葉隠四誓願(しせいがん)」である。次回に語ろう。(葉隠研究会副会長・大草秀幸)

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