「先生、僕は卒論のテーマを『ヨーイン』にしようと思います」。東大名誉教授古川哲史(ふるかわてつし)がまだ現職教授だったときのこと。ゼミの学生がこう言ってきたので、思わず「ヨーイン?」とオウム返しに聞き返した。学生の目はいたずらっぽく笑っていた。

 古川は昭和15年(1940)に東大文学部の恩師和辻哲郎(わつじてつろう)との共著「葉隠」上・中・下巻を岩波書店から刊行した葉隠研究の第一人者である。佐賀の葉隠研究会にも発会時から顧問に名を連ねた。

 東大文学部では、ギリシャ哲学のソクラテス、プラトン、アリストテレスと同列で「葉隠」の講座が続いている。

 「はがくれ」の名付け親は筆録者の田代陣基(たしろつらもと)であろうとの説が有力である。栗原荒野(くりはらあらの)編著「葉隠の神髄」の「葉隠の名義(めいぎ)」の項には、西行(さいぎょう)の「山家集(さんかしゅう)」恋の部の短歌「寄残花戀」(残れる花に寄する恋)を紹介している。平安から鎌倉時代初期の武士であり、出家して歌人として名声を博した西行である。

 

 はがくれに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢あふ心地する

 栗原は「陣基が、世を忍ぶ隠士(いんし)山本常朝(やまもとじょうちょう)の徳を慕って訪ねた気持ちから、この歌と句を照らし合わせ、初句『はがくれ』の字句を取って題名としたに違いない」とする説を紹介する。また一方では、「黒土原の草庵の近くには、名物の『はがくし』という柿が多く見られた。その柿の名から出たものであろうと説く人もある」とも言う。

 加えて最後に自説を述べている。「やはり当時の(常朝と陣基の)環境と心境から名付けたと見るのが妥当だろう。すなわち、木の葉隠れの草庵で語りつ聞きつした環境と、談話そのものがいわば内緒話ないしょばなし、世に出すべきものではなくて、陰徳(いんとく)を重んずるといったような心境から『葉隠』の題名を付けたと見るべきである」

 これを結論としたいようだが、栗原自身も諸説あるなかで揺れていたようだ。ただし「緑陰閑談」「山中秘話」といった意味合いに重きを置いたようだ。

 謎めいていて想像が広がる「葉隠」の名義である。それらの境地が、西行の「寄残花戀」の歌と響き合うところにゆかしさがあるように思われる。「ヨーイン」ならぬ「葉隠」の名付け親は誰なのか。謎は残る。(葉隠研究会副会長)

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