「スーパーの女の人たちって、いつからああなの?」

 だいぶ酔いのまわった23時、友人Hに突然、尋ねられた。年末、彼女の転職祝いをしていたときのことだ。転職前の有給消化中、Hは普段は足を運ぶことのない平日昼間のスーパーによく行ったという。そこで、すっぴんかつ着の身着のままで買い物をしている同世代のママたちに唖然としてしまった。

「あの人たちは、いつ女をあきらめたの?もともと着飾ったり女を楽しむことに興味がなかったの? それなのになんで全員結婚できてるの? 結婚後に劇的に変わったの?」

 批判するとか非難するとかではなく、Hは不可思議な世界に放り込まれて困惑している様子だった。同じ時代の同じ価値観を生きたはずなのに、なぜ彼女たちは異星人のようなのか。きっと独身時代の私も、同じような目でスーパーの女たちを眺めただろう。そう思うと、急に双方をつなぎたくなった。

「実は、私もスーパーの女だったことがあるんだ。ここ1年で、ようやくそこを脱しつつあるという自覚がある」

 それは、子どもを産んでから2年ぐらいの期間だった。自分なしでは生存できない生き物と暮らすようになると、その優先順位はおのずと上がる。毎日、赤子のために起き、赤子のために食事を作り、赤子のために必要な衣服を買い(それはあっという間に小さくなる)、赤子のための家具をそろえ、赤子に与える絵本やおもちゃを選び、赤子を寝かしつけながら眠る。こうして赤子の従者として過ごすうち、私の生活における自分という存在は豆粒ほどの大きさになっていた。

 赤子に物語の主人公を譲ることで、確かに肩の荷は降りた。しかし代わりに、その可能性に満ちた未来を守らねばという変な使命感と強迫観念が生まれ、お金や時間を自分に費やすのはもったいないと思うようになっていった。こうして私は半ば自主的に赤子に支配され、人間としての尊厳を失っていった。

 はたと気づいたのは、娘が2歳を過ぎたころだ。知らぬ間に年を取り、知らぬ間に体形が変わり、好みも変わり、でもそれらが変わったことにすら気づいていなかった。

 スーパーの女とは、自分らしさを失ったママたちの姿なのかもしれない。

 私は一体、どんな格好をして、どんなメイクをすればいいのだろう? ママとして、アラフォーとしてふさわしい格好とは? そんな、今まで考えたこともない指標が顔を出す。他人のことばかり考えて、他人のものばかり選んでいたら、自分の好みがわからなくなってしまったからだ。子どもの洋服のサイズはわかるのに、自分にぴったりのサイズはよくわからない。いつの間にか、世の中の流行もリアルに感じられなくなってしまった。

 困惑したのはHだけではないのだ。私も、いつの間にか変化した自分に困惑していた。自分のために物を探し、自分のためにお金を使って、自分の今を生きている女性たちが息をする世界は、まるで別の星の話みたいに見えていた。

 結局、私が自分を取り戻したのは、仕事を本格的に再開してからだった。一人きりになって世の中の空気を肌で感じたり、子ども抜きで友だちと会って自分自身を確認したりするうちに少しずつ。

 今、私はあらためて自分らしくいることの大切さをかみしめている。自分の好きなものにはお金も時間も使っていい。マッサージやら鍼やらで他人にケアしてもらって精神的に満たされたり、自分の好きな姿になって自信を保つことも重要だ。そして、自分の好みを確認することは怠るべきではないとも思う。だって、生きる上で自分の機嫌を取ることってすごく大事なんだから。私たちは皆、自分の人生を生きている。


有馬ゆえ(ありま・ゆえ)
1978年、東京生まれ。フリーライター。既婚。趣味は男女アイドルウォッチ。
 

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