幕末唐津の領民たち(市重文「唐津神祭行列図」より/唐津市蔵)

 幕末の唐津藩主小笠原家は唐津に転封した時から多額の借金があり、表高約6万5000石とはいえ、水野氏が唐津から転封の際に1万7000石、43カ村を幕府領に献上したため、収入はその分減ってしまいました。

 文政9(1826)年段階では有栖川宮、伏見宮などの宮家や東大寺、江戸城大奥、さらには鴻池などの商家からの借金が約33万両(約165億円)に膨れ上がっていました。

 当時の記録によると、参勤交代も行けない状況で、家臣たちは常に窮乏しながら幕末を迎えました。

 一方、領民たちはどうであったかというと、万延2(1861)年に領民たちに出された「心得書」などを見ると、武士たちとは真逆な生活を行っていた一面が垣間見えます。

 まず高級品である「羅紗(らしゃ)布類」や「呉服」を着ていたり、飾り立てた「莨入(たばこいれ)」、金銀金具で装飾された「キセル」を持ち歩いていました。さらに金銀で細工されたかんざしや鼈甲(べっこう)の櫛、笄(こうがい)などで着飾った女性もいました。

 また絹服を着たがる者が多かったようで、「絹素材については襟や袖であっても用いてはならない。木綿物であっても高価な染色をしてはならない」との規制がたびたび出されました。

 特に農民にとって米作りよりはるかに儲かる副業である石炭採掘、紙漉(す)き(和紙作り)、木炭焼きなどに従事する者たちが増えたため、田畑の荒廃地が増加するという大きな問題さえ出てきました。石炭採掘でにぎわい、村々が非常に豊かとなった相知、厳木地方の若者たちにいたっては、親や庄屋の言う事も聞かず、華美な服を着て、浄瑠璃や三味線などに明け暮れていた記録も残っています。

 「最近、武家奉公に来る村の者たちも贅沢になって困る」と嘆く武士たちとは違い、幕末の唐津の領民たちは自由闊達(かったつ)に生活し、唐津くんちをはじめとするさまざまな文化を創出させていきました。(黒田裕一・唐津市教育委員会兼唐津市明治維新150年事業推進室推進係長)

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