青い空、赤い屋根、緑の庭と一体化している

庭の朝日森稲荷大明神

 厘外は江戸時代に上厘外村と呼ばれ、南には高太郎、東には上飯盛と鹿子、正里、高柳に接し、クリークの多い水田地帯であったが、厘外中村周辺では今日、開発が急速に進み、住宅建設、企業の進出などで往事の面影をしのぶことが困難になっています。

 慶長絵図(1596~1615年)には、「石高二千六百十八石二斗二升二合」と記されています。今日の厘外と呼ばれるのは江戸時代後期になってからと思われます。文化14(1817)年郷村帳には厘外東分村として高柳、平松、野田、宮ノ丁、厘外西分には中村、中島、八竜と記されています。

 御厨家は、県道西与賀線の中村バス停の北に位置し、建物は鎌型を呈し、南面にして建っています。当主によれば江戸後期に建てられたと伝えられています。伝統的民家の姿が急速に消えていく今日、姿を変えることなく保存しようという当主の努力と熱意は、歴史的証人としての役割を担っているかのようです。

 玄関を入ると土間が広がり、南に面した座敷、中居、次の間と数多くの部屋が設けられていました。建物の南面には広大な庭を設け、そこには石灯籠、えびす像など石造物が大切に祭られていました。

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