水彩画

 享保(きょうほう)元年(1716)9月10日。7年の歳月をかけた「葉隠」11巻が完成した。この年、江戸幕府で活躍した新井白石(あらいはくせき)が「折(おり)たく柴(しば)の記」を著し、前年には近松門左衛門が人形浄瑠璃の名作「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」を発表していた。佐賀鍋島藩でひっそりと生まれた「葉隠」は、禁書扱いでその後も広く人目に触れることはなかった。その「葉隠」が俄然(がぜん)、存在感を増すことになるのは220年も後のちのこと、わが国が戦時色に染まっていく昭和初期である。

 山本常朝(やまもとじょうちょう)は、聞書全巻の編集を終えたとき、田代陣基(たしろつらもと)に「いずれはすべて焼いてしまいなさい」と指示している。

 此この始終(しじゅう)十一巻、追(お)って火中すべし。世上(せじょう)の批判、諸士の邪正推量風俗(じゃせいすいりょうふうぞく)等まで、只自分の後學に覺居(おぼえおり)候とて、話のままに書附け候へば、他見(たけん)の末々(すえずえ)にては遺恨悪事(いこんあくじ)も出づべく候間、堅く火中仕るべき由、御申し候なり (写本=孝白本) 

 7年をかけた労作を「火中すべし」と命じるのは酷というもの。案の定、陣基は焼却できなかった。かくして「葉隠」は残った。常朝は「葉隠」完成から3年後の享保4年(1719)10月10日に61歳で亡くなった。「葉隠」には物議を醸(かも)しそうな内容が少なくない。では、常朝が他見を危惧していた内容とは、どのようなものであったのか。例を挙げてみよう。 

 元禄(げんろく)14年に江戸市民の喝采(かっさい)を浴びた赤穂(あこう)浪士(ろうし)の仇討(あだう)ちにも、常朝は「泉岳寺(せんがくじ)で腹切らぬが落ち度。上方の人間は小利口で、世間から褒(ほ)められるようなやり方が上手」と批判し、そっけない。当時、そのような容赦ない忠臣蔵批判が公(おおやけ)になったら、非難轟々(ごうごう)だったろう。 

 また、殿様批判も平気だ。巻頭の「夜陰の閑談」には、「今の殿様は、お生まれになるなり若殿若殿とご機嫌取りばかりされていたので、苦労もなく、国学もご存じなく、わがままに好き勝手なことばかりなされ、お家勤めのこともいい加減」と歯に衣(きぬ)着せず批判し、側近たちをもこき下ろしている。 

 「葉隠」の写本は、佐賀県立図書館所蔵だけでも全11巻揃いが9種、県立博物館や佐賀大学図書館、多久郷土資料館、鍋島侯爵家、栗原荒野家などにも存在する。まだ研究の余地がいっぱい残されている。(葉隠研究会副会長)

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