真田幸村をまつったとの言い伝えがある供養墓。朝鮮出兵の時は真田氏の陣があった=唐津市鎮西町

 今年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公で、戦国時代末期の武将、真田幸村(信繁、1567~1615年)をまつったとされる供養墓が、唐津市鎮西町の肥前名護屋城真田陣跡にある。父昌幸、兄信之とともに朝鮮出兵に参加した幸村にとって、名護屋はゆかりの地だが、討ち死にしたのは「大坂夏の陣」で、墓の由来は謎が多い。肥前の地でも「幸村人気」が高かった証しか-。

 墓は名護屋城跡から波戸岬に向かう途中の少年自然の家近くの真田陣跡にある。雑木林の中を入っていくと、高さ2メートルほどの鏡石があり、これが地元住民が言い伝えてきた「サナダサエモン様の墓」だ。

 付近の住民によると、墓周辺の土地は数十年前まで、所有者が「真田さん」という名前だったという。幸村の子孫か否かを確認するすべはないが、「サナダサエモン」は幸村の名前である「真田左衛門左(さえもんのすけ)信繁」を連想させる。

 近くに住む山口久美子さん(64)は「お彼岸に地域の方たちと赤飯やお煮しめを供え、拝んだりもしていた。もちろん、みんな幸村さんの墓だと思っている」と語る。

 幸村は1615年、徳川家康により豊臣家が滅ぼされた大坂夏の陣で討ち死にした。このため、地元では、幸村のゆかりの人物が土地勘のある名護屋まで落ち延びて、幸村を供養する墓を造ったという「落ち武者伝説」が残っている。

 鏡石そのものは、文字が彫られていたとみられる表面が削られ、何の手がかりもない。しかし、近くの石塔に「寛永十年」(1633年)の文字が彫られており、県立名護屋城博物館学芸員の武谷和彦さんは「時代的にも大坂夏の陣に近い。落ち武者伝説にも符合する。幸村を数百年間まつってきた可能性もあるのでは」と推測する。

 時の権力者である徳川家康に果敢に挑んだ幸村は江戸時代から人気があった。供養墓や供養塔は幸村の故郷の長野のほか、遺児が暮らした京都や宮城、幸村が主君豊臣秀頼を連れて落ち延びたと伝説が残る鹿児島など全国に十カ所前後あるという。ただ、遺体がなかったため、正式な墓はないようだ。

 戦国期の武将に詳しい歴史学者で高校教諭の平山優さん(52)=山梨県=は「源義経と一緒で、強き者に挑んだ姿が判官びいきの日本人気質に合っている。それが討ち死にせずに落ち延びたという民間伝承や供養墓につながったのだろう」と話している。

【真田幸村】

 1600年の関ケ原の合戦で、父昌幸とともに西軍につき、徳川の大軍を食い止める武功を見せたが、西軍が敗れたため領地没収。14年の大坂冬の陣では豊臣秀頼の呼び掛けで大坂城に入り、再び、徳川家康と戦う。出城「真田丸」での善戦、また、夏の陣では家康をあと一歩のところまで追い詰め、討ち死にしたものの、武名をとどろかせた。

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