「葉隠」は佐賀藩士の山本常朝(やまもとじょうちょう)と田代陣基(たしろつらもと)の合作だ。常朝の口述を筆録した陣基は優れた文筆家であり編集者である。

 常朝は万治(まんじ)2年(1659)に佐賀市片田江横小路に生まれ、9歳で佐賀藩第2代藩主鍋島光茂の御側役(おそばやく)に召し出された。御歌書役(ごかしょやく)や江戸書物奉行、京都御用など殿様の側にあって相次ぎ要職を務めた。元禄13年(1700)5月、光茂が69歳で逝去する。この年には、水戸黄門さまこと徳川光圀(みつくに)も73歳で亡くなっている。光茂の御側役として33年間仕えた常朝は、「追腹(おいばら)」を切ってお供をしたかった。しかし光茂が40年前に幕府に先駆けて定めた「追腹禁止令」があった。やむなく3日後には鍋島家菩提寺の高伝寺(こうでんじ)の了為(りょうい)和尚に就(つ)いて剃髪(ていはつ)出家した。城下の北方3里、金立山麓黒土原の草庵に隠(こも)ってひたすら光茂の霊を弔う。才気煥発(さいきかんぱつ)、42歳のときであった。

 10年後、この草庵を訪ね来たのが陣基である。第3代藩主綱茂(つなしげ)の右筆(ゆうひつ)(文筆に従事する役)であったが、唐突に役を解かれた。「御役御免(おやくごめん)」は「浪人」ではないが、たちまち苦境に陥る。気落ちした陣基は、すがる思いで常朝の草庵を訪ねた。「葉隠」は次のように始まる。

 

 寶永(ほうえい)7年3月5日初めて参會

浮世から何里あらうか山櫻 (古丸(こがん))

白雲や只今花に尋ね合ひ (期酔(きすい))

 

 「古丸」は常朝、「期酔」は陣基の雅号。春浅き旧暦3月は山桜の季節であった。このとき常朝は52歳。陣基33歳。藩中でも曲者(くせもの)と評判の常朝の徳に 惹(ひ)かれ、小雨の中、夜明け前の山道を歩き通して草庵にたどり着いた陣基は、弟子入りを願い出る。「この希望は叶うまい」と思っていた陣基の予想に反して、常朝はその願いを聞き入れた。 

 2首の俳句に、両者の初参会の心情が読み取れる。3里の夜道を急いだ陣基の一途(いちず)な思いに、常朝が「城下から何里あろうか。よくぞ尋ね来た」と詠むと、陣基もまた「只今、師常朝様にお会いすることができました」と喜びを表している。2人の出会いは「花」の2句に象徴される。陣基は近くに移り住む。これより7年間、木の葉隠れの草庵で閑談が続く。幾度も季節は巡る。

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