「文政六年来朝のシーボルト像」と書かれているシーボルト像(武雄市蔵)。シーボルトの絵師として有名な長崎の絵師川原慶賀が描いたシーボルト像の写しと思われる

 およそ1300年前の『肥前国風土記』にも紹介される、古い歴史をもつ武雄温泉の正月は初湯の式で始まります。温泉元湯では、元旦の午前6時、温泉の北に隣接する廣福寺の住職が読経したのちに湯殿が開かれます。これは、鎌倉時代の仁治2(1241)年、宋から帰国した禅僧聖一国師が武雄で療養した際、廣福寺を開山したこと、また、当時の武雄領主が武雄温泉一帯の土地を寄進し寺領となったことに由来します。

 江戸時代、文政9(1826)年の正月11日、オランダ商館ドイツ人医師シーボルト(ジーボルト)は新任の商館長スツルレルとともに、将軍家斉に謁見えっけんするため江戸参府の途上、武雄(当時は柄崎と呼ばれた)を訪れ、特別に許可を得て温泉に入浴しました。シーボルトが残した『江戸参府紀行』には、「温泉の湯溜ゆだまりは(嬉野温泉と比べ)もっと大きく一段と快適な設備をもっている。使節と我々は肥前藩主の浴場で入浴する許可を得た。木製の浴槽で、湯元から湯が運ばれた。その清潔さは驚くほどで、もともと水晶のように透き通っていた湯を前もって馬の尾で作った細かい篩ふるいで漉こすのである」とあり、武雄温泉を高く評価しています。

 ところで、この塚崎温泉の湯賃は武雄領主の収入となって「懸かけ硯すずり」と呼ばれる藩の機密費に繰り込まれていました。この機密費が、武雄領での積極的な洋学(西洋の学問)受容の財源につながったことも想像され、これも興味深いことと言えます。(武雄市図書館・歴史資料館 川副義敦)

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