現在の久敬社塾=神奈川県川崎市

 明治維新、そして廃藩置県という激動の中、藩が解体し、結集核となっていた藩主が消滅すると、旧藩士たちは党派をつくって分裂したり、没落していく例が全国で見られる中、旧唐津藩では旧藩主の小笠原長国による炭田経営に旧藩士たちを雇用したり、小笠原家の家令である大島義興(大島小太郎の父)によって唐津魚会社が設立され、旧藩士を多数雇用するなど、士族救済が行われていました。

 そうした中、明治11(1878)年、旧藩士の曽禰達蔵や掛下重次郎、天野為之らにより、東京で生活する唐津出身者の交流や支援の場としての「久敬社」が、東京・麹町の小笠原邸の一角に設立されました。

 名前は『論語』の一節の「久而敬之」から取られ、設立当初は月に1回、在京者たちが集まり、研学・修養、さらには情報交換の場として機能していました。

 その後、旧藩士以外でも上京する唐津出身者が増えたため、明治19(1886)年には小笠原家より下賜された東京・小石川の家屋を利用し、学生が寄宿できる久敬社塾が創設され、後には唐津にも久敬社の支部や後援会がつくられました。

 久敬社は小笠原家の保護の下、上京した唐津出身者が幹事や委員を務めて運営されました。特質すべきは単に上京者だけの交流や学生育成の場に止まらず、唐津はもとより、東京以外で生活する唐津出身者の情報も収集・共有し、支援も行われ、旧唐津藩各町村を巡回する講演会が開催されていました。

 唐津が明治後、他地方で見られた士族反乱や分裂などがなかったのは、小笠原家を頂点とする秩序社会が久敬社を中心に存続していたことが大きいと考えます。当時、海軍軍人でもあった小笠原長生が久敬社社長として就任しましたが、常に「旧藩主従五位公(後に正五位公)」と崇められていました。旧藩主を中心に唐津出身者の結束を物語っています。

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