建築当初の姿をそのまま残す母屋

米蔵は2階の南面を若干改修している

 慶長絵図によると長崎街道より南部を平吉郷、北部を南郷といい、平吉郷の名前は低平で葦(あし)の繁茂した干潟の荒野景観によるもので、葦を吉の名前に改変したものといわれています。

 芦刈村を根拠地としていた最初の豪族は、千葉氏の家臣徳島氏で、徳島氏が小城藩士となって芦刈村を離れた後、慶長年中(1596~1615年)に神代氏が芦刈村を分地。神代氏は芦刈村に屋敷を設け、その一帯を小路といいました。

 文化8(1811)年の平吉絵図に館屋敷と記されている所が屋敷を指すものと思われます。そののち神代氏は姓を鍋島氏と変え、佐賀本藩の親類の家格となります。

 このような歴史的環境に立地する森永家は道路より北に入った所に位置し、南面にして建ち、母屋の横に米蔵を併設しています。当主によれば、いずれも建築年代は明治40年で、その後も母屋はほとんど改修されず建築当初の姿のままで保存されています。

 入り口を入ると、まず土間が広く、上り階段が備えられ、天井を見ると重厚な松材のはりが縦横に張り巡らされ、そこにはくぎ一本使用していないということで、その構造に感銘を受けました。

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