小笠原胖之助の墓=唐津市西寺町の近松寺

 唐津出身の学生らの寄宿舎として神奈川県にある久敬社には、幕末から明治にかけての小笠原氏にまつわる貴重な史料が多数残っています。その中から明治29(1896)年に東京で開かれた箱館新選組隊士小笠原胖之助(はんのすけ)の追悼会について紹介します。

 小笠原胖之助は明治元年(1868)年10月、北海道・七重での戦いで戦死しましたが、江戸から徳川家軍艦「長鯨」に乗って脱出する際には大刀を持っていなかったため、唐津藩士多賀右金治が胖之助に一振りの大刀を進呈したことが追悼会史料に記されています。

 ところがこの大刀は七重で胖之助が亡くなった際にはなく、明治2年正月、箱館の劇場で山際平三郎(旧唐津藩士。箱館新選組)が胖之助の大刀を持っていた元新政府軍兵士で旧幕府軍に投降した大塚某という男を捕え、当時、箱館市中取締として裁判事務も兼任していた大野右仲に身柄が渡されました。一部始終を自白した後、放免になった大塚某でしたが、胖之助の仇として唐津藩士たちに惨殺されました。

 明治29年4月20日、多賀が経営する新橋料亭湖月楼で開催された胖之助の追悼会には、小笠原長生(小笠原長行長男)が病気のため、弟の小笠原静をはじめ、前場小五郎、大野右仲、多賀右金治、田辺新之助、曽禰達蔵、辰野金吾ら16人が集まりました。

 床の間には胖之助の位牌(いはい)と共に取り返した大刀や米、鮮魚などが置かれ、大野右仲が胖之助の生涯や大塚某から聞きだした胖之助の最後の状況を伝え、曽禰達蔵は上野戦争後も共に潜伏し、会津まで同行した胖之助と別れるまでを話すと、参加者は涙しながら聞いていたと記されています。

 会の終わりには毎年10月24日の命日にこの会を開催すよう決定したことが記されています。小笠原胖之助は明治になっても旧唐津藩士たちに慕われ、心の中で生き続けていました。

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