今年は明治維新150年。新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は佐志中(唐津市)の3年1組です。

【きょうの教材】米国仕込みの量販戦略 森永製菓創業者 森永太一郎

森永太一郎が揮毫した「終始一貫」の書を掲げる児童たち=伊万里市の伊万里小

 日本を代表する菓子メーカー「森永製菓」の創業者森永太一郎は、慶応元(1865)年、伊万里で生まれた。幼少期に父を亡くし、伯父の陶器商に引き取られ、商人としての基礎を学び、「誠実」「勤勉」といった心構えを教え込まれた。
 23歳の時、森永は焼き物を売り込むために渡米。結果は失敗に終わったが、そこで洋菓子と出合い、職人となって技術を身に付けようとした。当時の米国は人種差別が激しく、アジア人の労働力を脅威と捉えて排斥する動きが広がっていたが、森永は生来の負けん気で踏みとどまり、皿洗いなどをしながら修業に励み、さまざまな菓子の製法を習得していった。

肥前さが幕末維新博にちなんで建てられた偉人25体のモニュメントの一つ、森永太一郎のモニュメント=佐賀市の中央大通り

 明治維新以降、日本では欧米の文化を取り入れ、近代化を進めようとする「脱亜入欧」の風潮が高まり、食文化においても、政治家や知識人が肉を食べたりミルクを飲んだりすることを奨励した。外国人の国内居住が自由になると、街に西洋料理店ができ、そこから庶民に広がった。
 森永が東京・赤坂を拠点に洋菓子を売り始めたのは明治32(1899)年。森永は、海外から導入した製造機械の改良を重ねて量産化を進め、大量の商品を売るため広告宣伝にも力を入れた。今で言うデザイナーやコピーライターを登用し、パッケージやポスターを工夫。新聞の全面広告や飛行機によるビラまきなど、世間を驚かせるキャンペーンを展開した。こうした派手な動きを「正規の商法ではない」と白眼視する向きもあったが、森永は、広告がこれからの商売の要になることを、米国暮らしでよく分かっていた。
 成功を収めた森永は、現在の伊万里市大坪町に菓子原料用の練乳工場を造るなど、故郷への恩返しをした。晩年には何度も伊万里を訪れ、世話になった人たちに直筆の書を贈った。そのうちの1点で座右の銘「終始一貫」の揮毫が、伊万里小学校に残っている。
 


「あきらめず誠実に」で成功

日本を代表する菓子メーカー、森永製菓を創業した森永太一郎について、青木宏文記者が話した=唐津市の佐志中

川原峻先生  きょうは、伊万里出身で明治時代に森永製菓を創業した森永太一郎について学びます。太一郎は若い時に単身で渡米し、洋菓子と出合って職人を志しましたが、とても苦労しました。どんな苦労をしたと記事に書いてありましたか。
生徒1 当時の米国は人種差別が激しく、アジア人は職種も制限されていました。
川原先生 では、どんな努力を重ねていきましたか。
生徒2 持ち前の負けん気で立ち向かっていきました。
川原先生 日本で洋菓子を広めるため、ポスターや飛行機からのビラまきなど新しい広告手法にも取り組みました。では、太一郎について記事を書いた佐賀新聞社の青木宏文記者の話を聞きます。
青木宏文記者 この記事を読むまで、森永製菓の創業者森永太一郎が佐賀の人だと知らなかった人は多いと思います。私も社会人になるまで知りませんでした。ちなみに、江崎グリコの創業者江崎利一も佐賀の人です。
 私は、太一郎の生涯を調べていて、辛抱することの大切さをあらためて感じました。彼はキリスト教の教えを心のよりどころにしながら、商売の挫折や人種差別などを乗り越えていきました。私は辛抱することは苦手ですが、新聞記者の仕事は20年近く続けています。やっていて、つらいと感じるより面白いと感じることの方が多い。好きなことだと、辛抱も辛抱と感じなくなるのかもしれません。太一郎はなぜ成功できたと思いますか。
生徒3 つらいことに負けず、やりたいことを貫いたから。
青木記者 そうですね。勤勉だった。負けん気があった。体の大きい米国人に負けない体力があった。単身で渡米する度胸、胆力があった。大量生産・大量消費の時代を先取りする商売の才能があった。いろいろな要因があったと思います。でも大きな要因の一つは、「誠実」であったということでしょう。
 太一郎は6歳のころに父を亡くし、伯父にひきとられ、そこで商売の基礎を学びました。伯父は太一郎に、商売で必要な心構えを四つ教えました。▼どんな場合でも正当な品だけを扱い、決して不正直なものを売買してはならぬ▼もし目の前の欲に迷い、不堅実な品を扱うようなことがあったら、決して真の商人となることはできない▼適切な価格と信じてその売価を発表したならば、値引きは絶対にしてはならない▼急がずに10年を1期と定めて仕事をせよ。
 これらを貫いたことで商売に最も必要な「信頼」を得て、成功できたのだと思います。「何事にも誠実であれ」。言葉では分かっていても実践するのは難しいです。「終始一貫」を座右の銘とし、誠実に生きることを貫いた森永太一郎から学ぶことは多いと思います。

記者の話を聞いたり記事を読みながら、ワークシートに書き込みをする生徒

生徒4 森永太一郎のすごいところはどこだと思いますか。
青木記者 単身で渡米して10年間も辛抱したこと。そして体力があったということ。一日2、3時間しか寝ずに働いたということを何かで読んだことがあります。
川原先生 皆さんはこれから大人になっていきますが、困難や苦労は必ずあります。森永太一郎は、決してあきらめず、何をすべきか自分で考えて行動しました。皆さんも「何事もあきらめず誠実に努力する」「目標を持ち、実現に向けて頑張る」。これらの大切さをきょうの授業で学んでくれたらと思います。

 

 

【授業を聞いて・みんなの感想】

宮﨑 蒼真さん
 森永太一郎は米国へ渡り、人種差別などを受けながらも、負けん気で努力して洋菓子を作り、成功したことはすごいことだと分かった。僕も森永太一郎のように、負けん気で最後まで、全力で頑張ろうと思った。また森永太一郎が佐賀県出身ということも、とても誇りに思えた。

井上  華さん
 記者さんの話を聞いて、これからは何事もあきらめたりせず、一つのことを貫いて生きていこうと思った。これからの人生のなかでたくさん大変なことや、つらいこともあるだろう。その時は、負けん気で努力して、自分が今何をすればいいのか考え、行動に移していきたいと思う。また周りの人たちへの感謝の気持ちも忘れないようにしたい。

【維新博 INFORMATION】

11月11日(日)、島義勇の銅像完成除幕式

 明治新政府において、初代開拓判官として北海道開拓に貢献した島義勇。札幌を「五洲第一の都」(世界一の都)にしたいと街づくりの基礎をつくった島は、北海道では「判官さま」と呼ばれ、北海道神宮や札幌市役所には銅像が設置されているなど今なお地元の方々に愛されています。

 今回の維新博を契機に、地元・佐賀にも島義勇の銅像の設置をと寄附金を募ってきましたが、皆様のご協力で目標金額2000万円を達成(9月末日現在:約2310万円)しました。場所は佐賀城公園の一角、西御門橋南側。

【さが維新塾特設ウェブサイトに収録 おすすめワークシートを紹介】
五輪に向けバリアフリー化(2018年8月23日付)

 「Q&A」を利用して、2020年東京五輪に向けてのバリアフリー化を進める動きの中で、障害がある人や高齢者を含めて、みんなが一緒に生活するために必要なことを考え、共生のあり方への考えを深めることができるようにしました。(佐賀新聞NIE担当デスク・多久島 文樹)

ワークシートのダウンロードはこちらから
・「さが維新塾」の特設ウェブサイト
http://www.saga-s.co.jp/sagaishinjuku.html

▶︎「さが維新塾」出前授業の希望中学校を募集しています。
問い合わせ】佐賀新聞社営業局アド・クリエート部
       電話 0952(28)2195(平日9:30~17:30)
 

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