今年は明治維新150年。新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は脊振中(神埼市)です。

脊振中学校の1~3年生全員と江口俊男先生(左端)

 

村の将来見据え造林決断

【きょうの教材】山村興す大規模植林
           脊振村第3代村長 徳川権七(1855-1924)

徳川権七が最初に植林を行った三継山。植林活動は続き、スギやヒノキが育つ=神埼市脊振町

 神埼郡脊振村(現在の神埼市脊振町)は明治後期以降、3代目の村長で「造林の父」と呼ばれる徳川権七のもと、村を挙げて大規模な造林事業を行った。徳川は村長就任3年前の明治35(1902)年、林業振興を目的に創設された「大日本山林会」の名古屋での会合に出席。専門家の講演を聴き、林業先進地を視察したりして、「山村の財政を支えるのは造林事業」と思い至った。

 官林(現在の国有林)の下草を刈り、田畑の肥料や家畜の飼料にしていた村民の多くは造林事業を歓迎しなかった。しかし、徳川は「将来的に村の人口が増えても、山村では耕作地が増えるわけではなく、やがては村外に移らざるを得なくなる可能性がある」ことなどを訴え、村民に造林事業の重要性を説き続けた。

 造林事業は明治38(1905)年にスタート。3000ヘクタールの山林でスギやヒノキなどの植林を開始し、第1段階として大正5(1916)年までに1000ヘクタールの植林を目指した。村民は無償で協力したが植林が進むにつれて労働日数が増え、計画の最終年には、不満を募らせた人たちが「村長辞任」を求めて役場に押しかけた。逮捕者が出て、山に火を放つ者まで現れた。それでも最終的に、徳川は「1000町歩(約1000ヘクタール)を植えることができた」という内容の記述を残している。

 徳川が亡くなって17年後の昭和16(1941)年から村有林の伐採が始まった。木材の収入で一時は、村の予算の5~6割を賄えるほどになり、昭和34(1959)年には1年限りではあったが、議会の同意を得て村民税が廃止されたこともあった。造林事業は山の保全や水源の涵養にもつながっており、徳川ら先人の思いを継ぐように、現在も植林は続いている。

徳川権七が発案し、村民の協力で建てた脊振小学校の石門は、今も残っている

 徳川は教育への思いも強かったようで、脊振小学校正門には、徳川が発案した石門が残る。高さ4.2メートル、幅約1メートルで、左右で重さが異なっている。

 

 

 

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江口俊男先生 きょうは郷土学習として、皆さんと同じ神埼市脊振町(旧神埼郡脊振村)の人で「造林の父」と言われている徳川権七のことを学びます。佐賀新聞社の小部亮介記者に話をしてもらいます。

旧神埼郡脊振村の財政を支えるため造林事業に積極的に取り組んだ徳川権七の業績について、小部記者が話した=神埼市の脊振中学校

小部亮介記者 ことし1月から佐賀新聞に連載している「さが維新ひと紀行」は、幕末から明治にかけてさまざまな分野で活躍した佐賀県関係の偉人を紹介しています。私は、現在、神埼市郡を取材エリアにしており、徳川権七の取り組んだ造林事業が、現在に至るまで脊振の人たちの役に立っていることを伝えたいと思って、取り上げました。

 植林されている場所にも行ってきました。三継山という所ですが、木々は一本一本、高さや幹の太さが異なっていました。最初の植林からすでに100年以上たっており、「この木は樹齢70年、それは80年」と目の前で教えてもらって、植林という仕事が着実に引き継がれていることを実感しました。ところで、徳川権七の旧宅がどこにあるか知っている人はいますか。

生徒1 役場(神埼市脊振支所)の北側です。

小部記者 はい。今でも役場の会議室として使われています。2020年度の完成を目指している複合施設の建設に合わせて取り壊す予定になっていて、保存を訴え署名活動をしている住民もいます。

生徒2 徳川権七が「村の将来のためには造林事業しかない」と思ったのはなぜ。

小部記者 まず、山村なので新しい産業を興すこと自体が難しいこと。また、当時は脊振の山々にそれほど木は多くなかったらしいこと。こういうことが前提にあって、名古屋での林業振興の会合で学んだことで、「山に木を植えて、その木を売って村の財政を支えればいい」と、造林事業に目を向けたのだと思います。

 植林には村民が無償で奉仕しました。「村の予算では大勢の人を雇う人件費が出せなかった」という記録が残っています。それでも、「村の将来のために、やらねばならない」と、一軒一軒回って村民への説得を根気強く続けました。また、記録には「当時の脊振村の人たちは忍耐強く、人情味の厚い人が多かった」ともあります。一時的に、無償奉仕に対する抗議行動もありましたが、造林事業の成功は「村民性」に助けられた部分もあると言えるのではないでしょうか。

生徒3 1年だけ村民税が廃止されたと記事にありますが、どれくらいの金額だったの?

小部記者 昭和34(1959)年当時の旧脊振村には、約4千人が住んでいました。村の歳入が約5000万円という時代で、そのうち村民税が占める割合は3%くらい。記録では170万7000円程度ということです。

生徒4 脊振小の門柱に使っている石はどこからどうやって運んだの?

小部記者 石は脊振山から切り出した花こう岩で、村民約600人が切り出しから運搬まで協力しました。重さは1本が約14トン、もう1本が約13トン。重さが違うのは、手作業で切り出したからと思われます。

生徒5 徳川権七のことをいろいろ教えていただき、ありがとうございました。脊振に住む私たちは、これからも徳川権七のことをさらに学んでいきたいと思います。

授業の終わりに、生徒代表がお礼の言葉を述べた

【授業を聞いて・みんなの感想】

2年・早場 葵音さん 植林は奉仕作業で、村の人がお金をもらわずに働いたということが特にすごいと思った。また、徳川権七が村民の家をたずねて回って植林の協力をお願いしたということにも驚いた。記事に「脊振小の正門の石柱の重さが左右で違っている」と書かれていて、なぜだろうと思っていたが、手作業で切り出したからということも知ることができた。

2年・山下 楽翔さん 今まで知らなかった「徳川権七」の偉さが分かった。植林は村民が協力して、スムーズに楽しく行ったのだと思っていた。でも、実際には暴動が起きたり、山に火をつける人がいたりして大変だったということや、最後まであきらめなかったので、村民を説得できたということも分かった。脊振村を一つにまとめた徳川権七はすごい人だと思った。

【維新博 INFORMATION】

10月20日「さが維新まつり」開催

 幕末から明治にかけて、この佐賀から多くの優秀な人材が育ちました。日本が大きく変わったこの時代、さまざまな分野をリードしてきた佐賀の偉人たち。

 佐賀駅から南に延びる中央大通りに偉人モニュメントとして設置している25人を中心に、時代の衣装を身にまとった佐賀の偉人たちが、行列をなして街を練り歩きます。

 未来につなぐ“灯り”をテーマに、自分たちで作ったランタンを手に持ち行列と共に歩む子どもたちや、灯りの空間を演出する大学生、 博覧会のコンセプトを盛り込んだ新しい佐賀の踊りの披露など、過去から現在そして未来へとつながる「志」を感じる新しいまつりです。

 現在、まつりの参加者を募集しています。詳しくは、「さが維新まつり」専用WEBサイト(http://www.saga-ishinmatsuri.jp/)まで。

 

【P説】鯱の門

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