小笠原長行の事績を記した『明山公遺績』

 小笠原長行。幕府最後の老中の一人として、第2次長州征伐で幕府軍の指揮を執るなど終末期の幕府を支え、北海道まで旧幕府軍と行動するなど、維新とは対極的な存在と考えられがちですが、明治期になると、日本を守った志士の一人として評価されました。

 当時の長行の行動と心情を『明山公遺績』(『小笠原壱岐守長行』)から見てみると、慶応4年3月、20名の側近たちとひそかに江戸深川の唐津藩下屋敷を抜け出し、5月には奥羽25藩による「奥羽列藩同盟」成立に携わりました。会津では積極的に前線で指揮も執っていましたが、10月に北海道に渡った際には、五稜郭には定住せず、箱館の街中の廃屋に側近たちと居住し、五稜郭政府とは一線を画していました。

 その理由について「江戸を出て奥州に行ったのは、周囲の事情からも軍務に携わらねばならず、また、自らも陣頭にも立たねばならなかったが、箱館に渡ってからは旧徳川軍に身を寄せている身の上であり、重要事項に携わることもなくなったため、市街地に住んで、徳川家を慕う者たちの行く末を見守りたかった」とあります。

 明治5年に罪が赦免され、明治9年には従五位に、明治13年には従四位に叙せられましたが、明治後、幕末から維新期にかけての志士の再評価がなされる中で、長行も志士として評価されるようになりました。

 それは長行が老中格・老中時代、「外国御用取扱」を兼任し、諸外国との外交を一手に担い、特にイギリスとの武力衝突の可能性すらあった生麦事件を解決に導いた事などが評価されたためです。明治42年に刊行された『国事鞅掌(おうしょう)報効志士人名録』には「もっぱら外交の難局に処し、よく危機を凌(しの)ぎ邦家の安泰を保ちたる功歴あり」とされています。

 長行も、諸外国の外圧から日本を守った志士の一人でした。(黒田裕一・唐津市教育委員会兼唐津市明治維新150年事業推進室推進係長)

このエントリーをはてなブックマークに追加