全国育樹祭座談会で大会への期待などについて語る井本勇元佐賀県知事(2002年9月撮影)

 佐賀県を隅々まで知り尽くしていた。終戦直後の1947年1月、当時の杵島地方事務所を振り出しに、3期12年務めた県知事を退任する2003年4月まで、半世紀以上にわたる県庁人生。誰よりも長く県政に身を置き、山口祥義知事は、その功績をたたえ「ミスター佐賀県」と称した。

 支えたものは県職員たたき上げの経験だろう。「現場を見たか」が予算査定時の口癖だった。嘉瀬川ダム建設では地元の反対を解きほぐすため、ソフトボールの親善試合を申し入れ、住民と直接心を通わせた。

 構想段階から携わった佐賀空港への思いは特に強かった。地元交渉の大詰めでは「万策尽きれば『計画はやめる』と言う」と不退転の覚悟で膝を突き合わせ、反対する漁業者を説き伏せた。開港の日、到着する1番機は涙でかすんでいた。視線の先に国際化を見据えていた。

 韓国との友好に力を注ぎ、韓国修交勲章を受章した実績がその熱意を物語る。知事として開館させた県立名護屋城博物館は、相互理解の拠点施設として評価は高い。

 歴史教科書問題で関係が悪化した2001年には、政府に「適切な対応」を求める文書を送付した。全国で交流中止が相次ぐ中、草の根交流の団長として韓国を訪れ、政府の足らざるところを乗り越えてみせた。

 高度経済成長からバブル期にかけ、公共事業が地方の発展を支えた時代に県職員として力を蓄えた。知事就任後の90年代以降、説明責任や透明性が問われる時代の潮目にあたり、コピー費問題や商工共済問題で批判の矢面に立たされる。戦後の地方行政を体現した清濁併せのむ政治家だった。

 人生の幕を閉じたのは4月23日。1991年に知事として初登庁した、その日という巡り合わせが生きざまを象徴した。

このエントリーをはてなブックマークに追加