錦御旗。戦場で風雨にささられたのか、色あせ、生地の端が欠損している

 錦御旗とは、朝敵征伐の際、官軍の標章として用いられたもので、承久3(1221)年、承久の乱の時、初めて記録上に登場します。その後、鎌倉時代から室町時代にかけて多くの戦いで使われ、官軍の士気を高め、敵対する者には天皇に歯向かう賊軍の意識を持たせて意気を阻喪させたとされます。

 慶応3(1867)年10月14日、薩摩・長州に対して討幕の密勅が出されました。これに先立ち、明治維新の中核的人物の一人である岩倉具視は、長い間途絶えていた錦旗の制作を提案。秘密裏に「日月章ノ錦旗各二旈菊花章ノ紅白旗各十旈」を制作したことが『岩倉公実記』に記されています。

 戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いで官軍の陣に翻った錦旗はこれとは別物でしたが、その効力は岩倉たちの予想を超えて絶大であったのか、以後、さまざまな錦旗が作られ、各方面に出陣する新政府軍諸隊に授けられました。

 武雄に残る錦旗は、絹地に墨で菊章を描き、周囲を紅花で染めたものです。製作の詳細は不明ですが、明治25(1892)年に描かれた『戊辰所用錦旗及軍旗真図』にある「菊御紋紅大四半」に当たると考えられます。

 武雄隊の羽州での戦いの過酷さを物語るように傷みが激しく、原資料の公開が困難なため、平成11(1999)年に当時の技法等を再現して複製が作成されました。

 企画展「武雄軍団、秋田を駆ける」は6月2日から、武雄市図書館・歴史資料館で開催されます。

(武雄市図書館・歴史資料館 一ノ瀬 明子)

 訂正 前回(4月20日付)の記事で、葉隠墓苑の除幕式に「武雄市長、佐賀市長らも出席」とあるのは、佐賀市長ではなく、当時の佐賀市教育委員会社会教育課長補佐の代理出席でした。

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